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​今昔あれこれ

 佐々江の歴史・文化 

佐々江の歴史や文化について記録されている資料や文献、この地域に伝承されて

いる民話や伝説、昔の懐かしい写真などを紹介します。

 他にも佐々江に関する情報などありましたら、コメントやフェイスブックにて

 お知らせ下さい。お待ちしています

  ◆◆◆ 第7回は、佐々江の史跡・文化について紹介します。◆◆◆

    * 近世以前については、広く丹波地方の内容も含まれています *

【 佐々江の史跡 】

Ⅰ.上佐々江

1. 毘沙門堂

 寺社類集によると江戸時代前期の元禄11年(1698)に再興されたと記されているが、

創祀は前代に遡ると考えられる。嘗てあった御堂には木造毘沙門天立像1体(像高1.19m)

と木造地蔵菩薩立像1体(像高1.25m)が安置されていた。共に寄木造りの玉眼・彩色で、

前者が南北朝期、後者が室町中後期の作とされている。御堂(丸木12‐1)は、平成?年に建材

の老朽化のため解体され、跡地には「毘沙門堂故地」の石碑が静かに佇んでいる。2体の仏像

もその際に安楽寺へ移され、久世株毘沙門講が当寺の第17世祐芳和尚に御守りを委託されて

現在に至っている。それまでは、久世与一氏をはじめ久世株や近隣の信者が月毎に毘沙門講を

催して、供養しお世話をされていた。嘗ては、御堂のあった丸木地区には13軒ほどの住家が

並んでいたと云うことなので、信者もその頃よりはもっと多くおられたと思われる。

[日吉の文化財p25~6][日吉町誌上巻p843][日吉町誌下巻Ⅱp1479~81]

 

2. 愛宕神社

祭神は火防の神である愛宕権現(伊弉冉命,雷神)で、今も毎年8月の第3日曜日に神社の

境内参道を掃き清めお祀りをしている。

3. 金比羅宮

 祭神は、大宝年間(701~704)に役小角が逢ったという護法善神金毘羅の神験に由来

する金比羅大権現であるが、明治の神仏分離令により「大物主神」と定められた。毎年8月の

第3日曜日には、氏子が神社の境内参道を掃き清めて御守りしている。

 

4. 八幡宮

 祭神は八幡神(応神天皇:品陀和氣命)であるが、大正6年(1917)頃に中佐々江の御霊

神社に合祀された。毎年8月の第3日曜日には、氏子が神社の境内参道を掃き清めて御守りして

いる。[古里70年の思い出p26]

 

5.イボ岩

 佐々江北谷の、山形利弘氏宅から300mほど弓削室谷に寄ったところから室谷川を横切って

100mほど山中に入ると、2メートル四方ほどの大岩がある。昔ある1人の樵が逢迫山へ仕事

に行き、この岩の上で腰をおろして煙草を吸っていると、忽ち彼の体一面にイボが出てきた。彼

が心配になって神様に御伺いを立てたところ、神様から『岩の上に座ったからだ』と御告げが

あった。それから逢迫山の大岩のことを「イボ岩」と呼ぶようになったと云う。因みに、この

一帯は佐々江の区有林で松茸の入札山「イボ岩」としても知られている。

[ふるさと口丹波風土記p39][ひよし昔ばなしp62~63]

 

6. 岩ヶ鼻の祠堂

 

7. 地神(道祖)

 

8. 石仏(菩薩

 嘗ては、上手の久世耕司家から下手の佐々江満治家を経て、北谷へと続く里道が裏山に沿って

通っており、久世家の裏手にはその里道を挟んで屋敷跡とおぼしき石垣があって、道脇に1体の

お地蔵さん(e)が石組みの祠に祀られている。また、里道を下がった旧上佐々江会議所の前にも、

嘗てお地蔵さんが祀られていたと思われる崩れた石組みの祠(d)がある。

 

9. 道標

 

 10. 上佐々江旧街道筋の屋号

 上佐々江では日常的に屋号で呼んでいる家があり、京北田貫町との境界から現在の北谷口へ

下る順に列挙してみると、桶屋(久野克己氏宅)・籠屋(久世敏雄氏宅)など家業に由来する屋号や

、上百合(久野正芳氏宅)・下百合(久野賀津子氏宅)・向段(久世耕司氏宅)・広畑(山形昭一氏宅)

・大長(久世和義氏宅)・オイエ(佐々江満治氏宅)など場所や家々の続柄を示す屋号が今も使われて

いる。

[「佐々江屋号マップ」より抜粋]

Ⅱ.中佐々江

1.  西方山 安楽寺

 第1世満蓮社教譽上人然善和尚により天文元年(1532)に開基された阿弥陀如来を御本尊

とする浄土宗の寺である。『船井郡誌』によれば、浄土宗大本山金戒光明寺の末寺とあり、『園部

町史史料編』では浄光寺の末寺となっている。また、寺伝によると京都淨福寺(創建時天台宗)

の末寺とあり、薬師如来が御本尊であることから開創当初は天台宗の寺であったと考えられる。

境内の薬師堂に安置されている薬師如来坐像と四天王立像が平安後期の作とされていることから

開創は古く、寂れて無住になっていた寺を然善和尚が再興したと推測される。再興年としては、

天文19年(1550)、永禄7年(1564)、慶長元年(1596)などの諸説がある。      

 本寺は、第6世在職中の享保5年(1720)に明日ヶ谷の寺領から現在地の大石谷へ遷された

後、第11世在職中の文政2年(1819)4月1日に発生した大石谷の大火で類焼し本尊も

焼失した。同5年には再建され、文政11年(1828)に浄光寺より現本尊を拝受した後、

今日に至っている。

 本尊の修復時に発見された背面記録には、「再建 佐々江村 文政十一戌子年 神谷升右衛門」

とある。

「當寺本尊 文政二卯年四月朔日 當村回録類焼依 之此本像者従本山浄光寺奉安置所也

槙息献供勤行永世爲 無癈谷記号(揮毫)」「̻▢呼 文政五午年三月 十一世社誠譽海心 謹寫」

 本寺の御詠歌では、「阿弥陀仏と 心は西に 空蝉の 安らけく 楽しく往かん」と詠われている。

 境内の薬師堂には、共に平安後期の作となる寄木造りの薬師如来坐像1体(像高1.4m)と

1木造り彩色で地方色に富んだ簡素な作風の四天王立像が4体(像高1.45~1.5m)安置

されている。そして、上佐々江の毘沙門堂が老朽化のため解体された際に、久世株毘沙門講に

よって御守りを委託された木造毘沙門天立像1体(像高1.19m)と木造地蔵菩薩立像1体

(像高1.25m)が安置されている。共に寄木造りの玉眼・彩色で、前者が南北朝期、後者が

室町中後期の作とされている。

 昭和36年に薬師堂の改築、昭和45年に本堂屋根の板金葺き、平成15年には鐘楼を建立

した。薬師堂内の毘沙門天立像1体と木造地蔵菩薩立像1体については、保存状態が悪く損傷

も激しいことから解体修復をすることになり、平成29年12月27日に魂抜き法要が久世株

と田中賢祐住職により執り行われた。平成30年1月18日には、解体・搬送のため須藤光昭

仏師が来訪され、一旦は京都伝統工芸大学校で現状を確認・検証した後、山科の須藤仏師工房

で修復を開始される。修復完了は盆前後の予定であったが、須藤仏師の体調不良で今のところ

未定である。

[日吉の文化財p17~9][日吉町誌上巻p69,833~4]

[日吉町誌下巻Ⅱp1397,1461][古里70年の思い出p20~1]

 第01世:満蓮社教譽上人然善和尚 天文19年(1550)安楽寺を開基

   ↓

 第11世:?蓮社誠譽上人海心和尚 文政5年3月(1822)浄光寺より現本尊を拝受

 第12世:?蓮社?譽上人潮善和尚 嘉永5年(1852)読み書き算術塾を開設

 第14世:顕蓮社天譽上人祐善和尚 明治44年(1911)男子を対象に補習塾を開設

 第15世:仁蓮社廣譽上人影善和尚(昭和?~) 祐海和尚の長兄であるが早逝

 第16世:大蓮社廣譽上人祐海和尚(昭和17年~) 季節保育所を開設      

 第17世:天蓮社顕譽上人祐芳和尚(平成6年~)

 第18世:現住職 證譽賢祐和尚(平成24年~)

 

2. 御霊神社

 10柱祭神(伊弉諾命・応神天皇・崇道天皇・吉備大臣・伊予新王・藤原吉子夫子・藤原大夫

・橘逸勢・文屋宮田麿・火雷天神)を1社で祀る。

創祀は桃山時代後期から江戸時代前期にかけての慶長年間(1596~1614)で、貞亨

4年(1687)に社殿が再建された。大正6年頃に、上佐々江の八幡宮祭神:応神天皇と

下佐々江の熊野神社祭神:伊弉諾命を合祀して、明治12年には村社に昇格した。燈籠は明和

2年、鳥居は昭和3年に建立された。[ひよしの碑p104]

 昭和5年に神社社務所が新築される。3年後には、氏子3百余人の奉仕出役と総工費1万4千

数百円の浄財を投じて神社新築工事が始まり、満2ヶ年の歳月を要して昭和10年(1935)

9月に完成した。最上段の旧社殿址右横に本殿(三戸前造り柿葺き)、上段に拝殿・神饌所(左)

・神具庫(右)が配され、石燈籠は最上段と上段に各1対置いて前面には石玉垣を巡らし、石段

を下りた中段の手水舎(左)・社務所(右)域にも1対が置かれた。更に石段下の下段区域には、

用水池を設けて前面に石鳥居社標1基と狛犬1対を配置し、境内一帯に桜や榊を植樹して、道路

と接する最前面に石垣を積み上げ石玉垣で仕切った。

 同年10月8日には、遷宮および竣工式が行われる。当日から翌日にかけて祝賀行事が催され、

各集落から山車を出して踊りや仮装行列と共に佐々江中を練り歩き、夜には村芝居も掛けられる

など嘗てない盛大な行事となった。

 昭和35年に本殿柿葺きを保護のため、銅板葺きとし覆屋を増築した。昭和42年には拝殿屋

根破損のため、準銅板葺きで修復した。本殿左横の基壇には石碑「本殿遺址」が静かに佇み、裏

に「昭和十年十月 八日移轉」と刻まれている。因みに山車巡行では、下と上の山車が1番争い

をするという一幕もあった。

[古里70年の思い出p16~8,159~65][日吉町誌下巻Ⅱp1426]

 

3. 佐々江峠安産地蔵尊

 明日ヶ谷地区で保管している正徳3年(1713)の古文書「丹波桑田郡漆谷村ヨリ同国船井

郡佐々江村郡領境 並 地蔵堂出入僉議之上裁許申渡候覚」京都町奉行「御裁許書」によると、「

若狭の八百比丘尼が明日ヶ谷の佐々江峠に地蔵尊を造立された」とあるが、地蔵堂の創建年は

不明である。往時は四面が幅1間高さ1間の御堂であったが、「近年に及んで御堂が大破したため、

寄進して再建し去年(正徳2年)の3月に入仏した」とある。この地蔵堂の造立場所を巡って

漆谷村との領境争論があり、京都町奉行所の下した判決文が上記の「御裁許書」で、争論の区間

であった佐々江峠東西8間の中間地点を両村の領境とし、御堂は佐々江領まで退くよう申し渡し

をした。その際に、御堂が佐々江村によって造立されたもので、鍵と共に佐々江村の所有である

ことを明らかにしている。

 現在の地蔵堂は幅2間奥行1間半の木造平屋で、御詠歌「ありがたや 利益はいつも 有明の

佐々江峠の 石地蔵尊」を揮毫した扁額が掲げられている。この地区では子供が生まれると、その

健やかな成長を願って参詣すると云うことである。8月23日の盂蘭盆には午前8時半からお堂

周辺の掃除をした後、午後2時から2人の世話役が輪番制で法要を営み、会食して親睦を深める

慣わしがある。この地区に住む大道富雄氏によれば、嘗てはお地蔵さんを自宅に迎えて賑やかに

法要を営んできた。20年前に子供達が いなくなってからも大人だけで地蔵盆を続けてきたが、

近年では住民数も減少して現在全8戸の内3戸が当番を務めるという極限状況になっている。

今日まで約400年に亘り脈々と受け継がれてきたこの地蔵盆が途絶えてしまうのは忍びない。

地蔵尊の伝統を守っていこうと、平成27年から中佐々江地区を中心に近隣地区へも協力を呼び

かけ、支援の輪が拡がりつつある。

[ひよし昔ばなしp151~3][日吉町誌下巻Ⅱp1494]

 明日ヶ谷口から佐々江峠への道は、嘗て若狭と京を結ぶ鯖街道として多くの行商人が往来した

らしく、安楽寺が明日ヶ谷に在った頃には旅籠や茶屋等が何軒かあり、佐々江峠にも茶屋が店を

出していたと云う。行商人達の中には、稼いだ売上金を当時流行っていた博奕で巻き上げられ、

挙句の果てに佐々江峠付近で無縁仏となった者もあり、今の地蔵堂当りに石仏を祀って成仏を

願ったと云う。[安楽寺 祐芳和尚 談]

 嘗ての地蔵堂が最初にあった場所は、佐々江から矢代へ越える明日ヶ谷古道の佐々江峠山頂

近く(下図①)であったと考えられる。上記の「御裁許書」では、佐々江村と漆谷村双方の訴えが

証拠不分明であることから争論区間の中間地点を領境とし「地蔵堂を佐々江領へ引き退け」と

判決を下している。この申し渡し以降に、峠の山頂近くから明日ヶ谷古道と現在の府道佐々江

京北線(旧周山高浜線)との交差付近へ移転(下図②:上佐々江の久野克巳氏が小学生頃の昭和

10年代に実見)し、昭和の中頃には現在の場所に落ち着いた(下図③)と云うことである。

[久野克己氏闘病の記四p5~10]

4. 藤森社・浄土三部経塚

 飛谷口(原峠入口)付近に藤森社と云う祠があり、そこに祀られている石神には「丑御神」

と刻まれている。以前この付近には村上氏の屋敷があって、裏泉水の上方山手に社が祀られて

いたと云う。

 嘗ては佐々江村でも多くの家が牛を飼っており、日々の農作業では田を荒鋤き・水鋤きする

にも牛の力が不可欠であり、また山でも伐り出した木材や把物・木炭などの運搬にはなくては

ならない、頼りになる存在であった。牛は山間に住む人々にとってかけがえのない働き手でも

あったので、多くの家では家族同様に大切にされ一つ屋根の下で共に暮らしていた。生業を共

にした牛達が亡くなると、懇ろに埋葬して弔うと云う「牛塚」が、下佐々江のアカハゲ山中に

あったらしい。(久世初野氏談)その当時は、毎年4~5月になると牛を飼っていた村人達が

藤森社に集って牛供養の祭りを執り行っていた。

 因みに「藤森」という言葉の由来について諸説ある中、国語学者の吉田金彦氏は「人の住み人

の通った所という意味がある。”藤”というのは古代人のフツ(経津)の地であって、人が往来し

住むというフ(経)のミチ(道)であるフミチ(経道)が約(ツヅ)まってフヂ(藤)となったものであろう。

それに、山とか村を意味する“森”を付けた言葉が”藤森”である。」としている。

中瀬浩二氏によると、昭和年頃まではこの地に浄土三部経塚が石組みの基壇に立っていた

と云う。今では基壇と思われる石が残っているのみであるが、安楽寺山門の手前にある浄土三部

経塚はそこから持ち運ばれたのかもしれない。浄土三部経塚は、扁平な礫石に浄土三部(無量寿

経・観無量寿経・阿弥陀経)の字句を書写して地中へ埋納し封土で覆った供養塚で、その上に

供養碑が立てられることもあった。

 

5. みこし岩

 明日ヶ谷の谷口より約5町(540m)程のところにあったとされる。昔お祭りの時に、御宮

の神輿が御旅の途中この岩の上で御休みになったところ、岩の下に住んでいたナマズが神輿の

重さに怒って大暴れした。忽ち暴風雨となって川が氾濫し、岩の上の神輿を川下へと押し流して

しまった。現在、田原の多治神社にある2基の神輿(江戸時代後期)の内1基は、この時拾い

上げられた神輿だと言い伝えられている。

 異説(村上信一氏談)として、原峠の入口にある大岩が「みこし岩」で、嘗て佐々江にあった

3社共有の神輿が御旅の途中この岩の上で御休みになったという言い伝えがある。ここは、道路

改修で削岩される以前には岩が飛谷川まで突出しており、飛谷川支流が田原川へと注ぐ合流点で

水量も多かった。真偽の程はともかく、嘗ての地形は「ナマズ」や「川氾濫→神輿流出」を想い

起させるような風情であったらしい。

[ふるさと口丹波風土記p39][ひよし昔ばなしp63~5][日吉町誌下巻Ⅱp1425]

 

6. 明日ヶ谷城址

 明日ヶ谷城址は桂川の支流である明石川と田原川上流域(明日ヶ谷)の丘陵頂にあり、(標高

510m、比高210m、城域:南北約90m 東西約75m、位置:東経135°35’03”北緯

35°11’23”)尾根の東側と南側に竪掘を設けて城域を画する。

 城域の最高所に位置する郭Ⅰは、城域で最大の面積を有しており東側尾根の斜面には竪堀が3条

設けられ、南東隅の通路により南側の郭Ⅱへと繋がる。郭Ⅱは、西辺に低い土塁状の高台があり、

南東隅の通路で南側の郭Ⅲへと繋がる。郭Ⅲは、南辺に土塁状の高台があって、南側尾根の斜面

には竪堀を2条設ける。

 城主に関する史料や伝承はないが、北に佐々江を、南西に生畑(旧世木薭生村)を見下ろす位置

にあることから、在地領主の小林(胡麻・田原郷)氏・湯浅(世木郷)氏に対抗する宇津(宇津郷)

の戦国末期の山城と考えられる。

[丹波動乱~内藤宗勝とその時代~p37]

[京都府中世城館跡調査報告書第2冊丹波編p328,344]

 

7. 明日ヶ谷 岩見鉱山跡

 明治38年頃に佐々江明日ヶ谷の岩見鉱山で採掘が始まった。佐々江には黒鉛があって、昭和

10年頃に藤原慶次郎氏が採掘を始めたものの、産出量が少なく事業化できなかった。今も鉱山

跡と見られる洞が散在している。[久野敬次郎氏の証言]

 

8. 地神(道祖)

 

9. 石仏(菩薩)

 土井寿雅雄家の道角に、身丈30cm程の1体の地蔵cが石の祠に祀られている。土井氏に

よると、昔ある人が「石に絵が描いてあるだけ」とお地蔵さんに粗相をしたところ、大事な所が

1週間ほど腫れたと云う。また、喘息の人が「治りますように」と願掛けを続けられて、喘息が

治まったと云う話もある。

 旧木村氏家の前には、2体の石地蔵gが立派な祠に祀られている。山形敏信氏によると、嘗て

木村家の新築工事中に土中から掘り出された2体の地蔵は、当時の安楽寺住職祐海和尚にお祓い

をして頂いた後、当家が新しく祠堂を建てて大切に祀られていたということである。

 

 10. 道標

 原峠入口(b)には、「右 周山 山國 左 宮嶋 大正十年六日 五ヶ荘村青年團」と記された

石標があり、嘗ては西の鯖街道:旧高浜街道の通過点であった。

 府道443号線(佐々江京北線)の佐々江峠(a)は、旧佐々江村から明日ヶ谷そして矢代

から周山へ続く旧高浜街道の峠であるが、矢代寄りに立つ南丹市の標識と佐々江寄りに立つ京都

市の標識との中間点山寄りに「是より西北園部領 佐々江村三組役人」と記された石標が立って

いる。元京北町の文化財保護委員長だった山村安郎氏によると、この石標は時期不明であるが

漆谷に移され、矢代小学校が廃校になる平成5年まで同校庭に建てられていたそうである。その

後、校庭跡に建てられた京北多目的ホールの裏で保管とも放置ともつかない風に転がされている

のを同氏が発見され、元の地点に立て直す働き掛けを思い立って、平成18年11月中頃に知己

であった上佐々江の久野克己氏を同地まで案内された。その時、久野氏は明日ヶ谷地蔵堂の造立

地を巡る漆谷村との領境争論で京都町奉行所が下した判決文「御裁許書」との関連性を指摘し、

その後山村氏の支援を得ながら、(1)周山自治会長の藤原初雄氏にお任せすること、(2)佐々江区長

の大道芳夫氏と久野氏がお願いに上がること、(3)石標を元の地点に最も近い所へ戻すことを基本

に、復元が進められることになった。そして師走3日の午前10時に、藤原氏・大道氏・山村氏

・久野氏と人夫1名が集まって、石標は約190年の時を経て無事に現在の地点(3図B)に復元

された。

 佐々江村の役人は今後同様の争いが起こらないよう願って、この石標を判決文の示す領境地点

(3図A)に建立したと推察されるが、建立年代やその後に辿った経緯・事情は今もって定かでは

ない。今では見る影もない明日ヶ谷古道であるが、嘗ては多くの行商人が往来した賑やかかりし

頃の鯖街道の名残である。

[丹波第11号p1~3][久野克己氏闘病の記四p5~10]

 

 11. 中佐々江旧街道筋の屋号

 中佐々江では日常的に屋号で呼んでいる家があり、現在の北谷口から旧高浜街道の原峠入口へ

下る順に列挙してみると、油屋(土井實氏宅)・酒屋(土井賢一氏宅)・鍛冶屋(松下文雄氏宅)・東屋

(佐々江キサエ氏宅)・床屋(湯浅繁美氏宅)・井筒屋(久世善春氏宅)・中店(氏宅)・小太店(氏宅)、

そして明日ヶ谷古道へは、昆布屋(大道マサノ氏宅)・畳屋(大道静子氏宅)・茶屋(村山好明氏宅)など

家業に由来する屋号の他、大石谷(中瀬孝彦氏宅)・下大石(久世満夫氏宅)・前(山形敏信氏宅)・

シタクボ(山形正信氏宅)・坂(久世清子氏宅)・坂の隠居(久世直次氏宅)・ヨモン(土井寿雅雄氏宅)

など場所や家々の続柄を示す屋号が今も使われている。[「佐々江屋号マップ」より抜粋]

Ⅲ.下佐々江

1. 金比羅権現社

 祭神は、大宝年間(701~704)に役小角が遭ったという護法善神金毘羅の神験に由来

する金比羅大権現で、水運の守り神として信仰されてきたが、明治の神仏分離令により「大物主

神」と定められた。

 嘗ては年に1回四国の金刀比羅宮に参詣して御札を持ち帰り、佐々江の金毘羅権現社に御神体

として奉納し永らくお祀りしていたと云う。残念ながら長らく代参もなく、御神体の御札は風化

して不在になっている。

 毎年4月の第1日曜日に催す例祭では、神社の境内参道を掃き清めた後、大幟を立てて御神酒

と神餅を供え、祭礼後には参拝者全員に御神酒と神餅を振舞う。

 

2. 秋葉神社

 祭神は三尺坊大権現に由来する秋葉大権現で、火防の霊験があり信仰されてきたが、明治の

神仏分離令後に「火之迦具土大神」として復活した。

 今も毎年8月の第3日曜日には、氏子が神社の境内参道を掃き清め、火伏の神様としてお祀り

している。戦後に始まったラジオ体操は、この神社の境内に村人達が集まって行われていたと

云う。(土井壽夫氏談)

 

3. 熊野神社

 祭神は熊野権現(伊弉諾命:速玉之男神)で、旧くは結神を主祭神としていたが、大正6年

(1917)頃に中佐々江の御霊神社に合祀された。今では社殿・覆屋と石燈籠2基が当時の

面影を残すだけとなっているが、毎年8月の第3日曜日には氏子が神社の境内参道を掃き清めて

御守りしている。[古里70年の思い出p26]

 嘗て神社の右隣には池があり、底無しで水は年中絶えることなく涸れると災いが起こると

云われていた。今もその辺りは水が浸み出し年中ジメジメしており、辛うじて嘗ての面影を

残している。

 戦中は、出征した夫や息子の無事を祈願するため、お忍びで当社の周囲を回って百度参りを

する婦人もあったと聞く。また戦前戦中を通じて、当神社境内の左側にある広場で早朝ラジオ

体操が行われ、子供達は参加するたび出欠表に押印してもらうのが楽しみで足繁く通ったと云う。

(土井淳一氏談)

 

4. 尼寺址(口承)

 古くは下村弥六氏旧宅跡から裏山中腹にかけて参道があり、その参道を上り詰めた先方に尼寺

があったと語り伝えられている(佐々江佐平太氏伝)。また寺ヶ谷口から熊野神社への参道を通り

、途中左側に分岐する参道を上って行くと、熊野神社から50mほど左側の一角に尼寺があった

とも伝えられており(下村喜治郎氏伝)、杉林中の寺址と思われる平地(寺ヶ谷61)は杉の枯葉

に覆われ今ではその面影もないが、嘗ての石垣らしき石片が僅かながら散見され、往時の名残を

辛うじて留めていたと云う(佐々江秀次氏)。

 この尼寺以前には、佐々江秀次氏の祖先が住まわれていた邸があり、園部藩士の宿所になって

いたと云う話も聞いており、その傍証として同氏の旧家には鎧や刀・槍・弓などの武具があった

と笹江元一氏は回想している。

 戦前戦中を通じて、早朝ラジオ体操が行われていたと云う「熊野神社(赤枠)境内の左側にある

広場(白枠)」は、この寺址のことらしい。因みに「寺ヶ谷」と云う地名も、この尼寺に由来する

と云われている。

 

5. 道奥谷鉱山・釜糠鉱山跡

 日吉町域の切明・道奥谷・弥谷・生畑の四大鉱山は、従業員数15~20人規模で月間100

~200トンを産出(炭酸マンガンも含む)した。中でも佐々江の道奥谷鉱山は、昭和12年

(1937)頃には年間2,000トン以上も産出し、当時日本第一の鉱山と云われた。

 日吉町域のマンガン鉱は「殿田マンガン」と呼ばれ、製鋼用の炭酸マンガンと電池用の二酸化

マンガンに大別された。後者の価額は前者に比して約3倍の高値だったが、産出量は1割ほどで

あった。採掘されたマンガン鉱は、辻中鉱業と昭和興業(前身は帝国マンガンで戦前陸軍が管轄)

の2社が主に集鉱し、JR殿田駅(現日吉駅)で荷積みされて鉄鋼各社へ輸送された。

 昭和40年頃になると、鉱石も枯渇して採掘割れとなり、日吉町の鉱山は次々と閉山に追い

込まれて昭和45年(1970)には姿を消した。

[日吉町概説p44][日吉町誌上巻p663~8][ひよし昔ばなしp134~8]

 

6. 地神(道祖)

 aは佐々江健次氏宅内で弁天様が根上り楓の祠に祀られており、化身とされる白蛇が現れたと

いう伝承がある。cは笹江昇氏宅内で樒下に池神様が祀られており、池に手を入れる際に池の神

を祀るよう御告げがあったと云う。

 

7. 石仏(菩薩)

 四ッ谷市田に近い和田付近(a)には石地蔵が1体祀られ、四ッ谷市田の藤井治夫家が御守り

されている。小津谷川に架かる橋の袂(b)では祠に2体が祀られ、佐々江講治家が御守りされて

いる。(c)は下村一雄家が御守りされ、祠に大小2体が祀られている。山中より向殿川へ流れ

下って救い出されたお地蔵様で、嘗ては地蔵盆が執り行われて子供達で賑わったと云う。嘗ての

下村市次郎家の敷地内(d)には、大小2体が祠に祀られていたが、旧家屋の解体時に処分されて

今はない。そのお地蔵様は、戦前に市次郎氏が裏庭の池を手入れしていた時に泥中から御現れに

なった石仏で、一人では寂しかろうと御供の子地蔵に似せた御石を並べてお祀りしたと云う。

(g)は嘗ての神楽坂峠へと続く道奥谷古道が道奥谷川と接する山際地点で、祠に1体の石地蔵が

人知れず祀られている。(h)は西角8番地の山裾に祀られている石地蔵で、石像というより石碑

のような御姿で道祖神のようでもある。嘗ては周山街道と道奥谷道の分岐点にあって、美山町の

原に至る神楽坂峠への道標としても旅行く人々を永らく見守ってきたが、神楽坂トンネルの開通

に伴って現在の場所に遷された。今は佐々江健次家が御守りをされている。原峠入口にある大岩

の最上部(j)には、身丈30cm程の愛らしい五体の地蔵が祀られている。現在は山形久家が赤い

前掛けを適時奉納して御守りをされている。下・上墓所(f)・(i)では入口に六地蔵が祀られ、

また下墓所参道中程のhでは祠に祀られた大小6体の石地蔵がある。

 

8. 道標

 下佐々江には大小併せて8つの谷があり、田原川を挟んで北側に上から飛谷・寺ヶ谷・道奥谷

・呑谷、南側に上から四ノ谷・向殿谷・小津谷・西ヶ谷と呼ばれている。飛谷の原峠・道奥谷の

神楽坂峠・四ノ谷の小畑峠などの峠古道は、嘗て周辺集落を繋ぐ経済・文化の交流路でもあった。

 

9. 下佐々江旧街道筋の屋号

 下佐々江では日常的に屋号で呼んでいる家があり、旧高浜街道の原峠入口から下る順に列挙

してみると、薬屋(中世博氏宅)・桶屋(下村修二氏宅)・茶屋(下村昌幸氏宅)・傘屋(笹江文一氏宅)・

炭屋(下村長治氏宅)・畳屋(佐々江孝四朗氏宅)・かんじゃ(鍛冶屋:笹江元一氏宅)・はな屋(雑貨屋:

土井淳一氏宅)や主屋(佐々江秀次氏宅)・隠居(佐々江健次氏宅)・谷口(小津谷の入口:笹江昇氏宅)・

会社前(集荷会社・集会所:旧下村丈男氏宅)・岸(「津戸」に由来する浜岸:旧下村旭男氏宅)などで

ある。主に当家の稼業や場所そして家々の続柄を示す名称が屋号として使われている。

[「佐々江屋号マップ」より抜粋]

【 佐々江の文化 】

1. 塾の開設

 佐々江村では、嘉永5年(1852)に僧侶の田中潮善が読み書き・算術・作法塾(男17名,

女4名)を開設し、小学校が開校される明治6年に閉塾した。

 因みに、日吉町で最初に記録されているのは、嘉永元年(1848)に四ッ谷村で僧侶の慮道

法印が開いた読み書き塾(男35名,女10名)である。また翌年の嘉永2年には、田原村で

医師の宇野良助が算術塾(男16名,女4名)を開設している。

[日吉町誌上巻p723~4][ひよし昔ばなしp122~9][ひよし再発見p27]

下って明治44年(1911)には、安楽寺住職の田中祐善が男子を対象に補習塾を開設して

いる。女子裁縫塾は、以前から住職内室により開設されていた。[古里70年の思い出p25]

 

2. 「明日ヶ谷」という地名の由来

 安楽寺本住職の故祐芳和尚の話として、「昔、佐々江から熊田へと越える峠道は、高くグネグネ

と曲りくねって遠かったので、“一晩泊まって明日にしなさい”ということから、“明日ヶ谷”と

言われるようになった」と伝えられている。そのため、昔は旅館や茶屋・店屋が多く立ち並んで

いたと云う。

 そして一夜の泊りで夜遊びして金銭を使い果たしては、帰るに帰れず自殺しこの地で無縁仏に

なった旅人もいたらしい。今でも、明日ヶ谷古道沿いにはお地蔵さんの数が他所よりも際立って

多く見られ、また佐々江の旧街道沿いでは茶屋・東屋・井筒屋や小太店・中店などの商いの屋号

で呼ばれる家がある。[久野克己氏闘病の記4p4]

3. 神楽坂縁起

 嘗ては日吉町佐々江と美山町原を結ぶ最短の峠道として神楽坂越えが利用されていた。古記に

よれば、野々村庄では(現美山町)文明5年(1473)の夏から秋にかけて、火災が頻発し

庄民を恐怖に陥れていた。そんな中、同年9月9日の道相神社例祭の湯立ての儀式に際して、

「 愛宕山を野々村庄より拝し得べき地点(拝所)を求めて、神楽を奏し愛宕神社に祈願せんには、

爾来必ず火難を免るるを得ん」との御託宣があった。

 庄民は熟議を重ね探索して遂に原村南方の峰の峠に御神託の拝所を見つけ、直ちに鳥居と神楽堂

を建立して神楽を奏し愛宕神社に祈願した。果たして火難は鎮まり、庄民も皆安堵したということ

である。その後は毎年正月・5月・9月の24日に神楽を奉納し全村より参拝することになったが、

年月を重ねる毎に拝所は朽廃して、神楽奉納も廃れるようになった。庄内ではまた火災がしばしば

起るようになると、天正2年(1574)原村が拝所に鳥居を寄進し、以後老朽化する度に原村で

建替えをして今に至る。神楽奉納も毎年1回奏し北部5村の安泰を祈願してきたが、明治期に中止

となった。

 今では峠の鳥居の近くに神楽堂の跡地(7~8坪)が残るのみとなり、原地区の住民が毎月23

日に2名交代で参拝されている。[ふるさと口丹波風土記p59~60][ひよし再発見p11]

 野々村葛坂(現神楽坂)では、文和元年(1352)11月6日に丹波国守護代荻野朝忠配下の

武将中津河小次郎秀家が一宮左衛門三郎朝宗らと共に、丹波へ進攻していた南朝方の千種顕経の

軍勢と、「散々合戦、追い払い、敵の弓手の肩を斬り付けた」手柄を記す軍忠状が残されている。

(亀岡市河原林遠山文書)南北朝時代には都で争乱が起こる度に、この地域も兵站機能を果した

口丹波への交通の要衝として重要な役割を担っていたのかもしれない。

因みに葛 (かずら) 坂の地名が現在の神楽坂に変わったのは、明治になってからである。

[美山町誌下巻p47,276]

 

4. 熊野山の祟り池

 寺ヶ谷道を上っていくと山の中腹辺りに熊野神社があり、その右横には「祟り池」と呼ばれる

不思議な池がある。今では、この池は誰も掃除をしないため、実に汚く五目が一面を覆い、池か

どうかも定かでない。

 その昔、8月17日の祭りを前に村人達が総出で熊野神社の掃除をし、最後にこの池の掃除が

残った。古くからこの池の「祟り」を知っている村人は掃除しようとしなかったが、余りに汚れ

ているので古老の下村源太郎氏(下村修氏の尊父)に掃除を頼んだ。老人は鍬などで泥土や五目

を掻き上げて池を奇麗に掃除し、村人も何百年も掃除されていない池が美しくなったのを喜んだ。

 ところがその夜、雲一つない月明りの空が突然暗くなり大粒の雨が降ってきた。村人が俄か雨

だろうと思っている間に、雨足は見る見るうちに速くなり増々激しくなって真夜中には川が轟々

と音を立て始めた。翌朝、川は氾濫して田畑も橋も流され、土堤も決壊して大きな災厄となって

しまった。村人はこの暴雨について思いを巡らせたが、やはり熊野山の「祟り池」を奇麗にした

からだということになった。この池は、昔から汚物や石を投げ込むと大雨が降ると云われている。

[ふるさと口丹波風土記p63]

 注:『ふるさと口丹波風土記』では秋葉山となっているが、古老からの伝承と池の所在地から

   みて熊野山が妥当でではないだろうか。

 

5. アカハゲの牛塚

 嘗ては佐々江村でも多くの家が牛を飼っており、日々の農作業では田を荒鋤き・水鋤きするに

も牛の力が不可欠であり、また山仕事でも伐り出した木材や把物・木炭などの運搬にはなくては

ならない頼りになる存在であった。牛は山間に住む人々にとってかけがえのない働き手であった

ので、多くの家では家族同様に大切にされ一つ屋根の下で共に暮らしていた。生業を共にした牛

達が亡くなると、村人達は懇ろに埋葬したと云う。

 「牛塚」は、下佐々江のアカハゲ山中にあって、現在「森庵」工場のある辺りの山道入口から

100m程上った平地にあったらしいが、今は杉林になっておりその面影もない。(土井淳一氏談)

因みに飛谷口(原峠の入口)付近にある藤森社には、「丑御神」と刻まれた石神が祀られている。

下佐々江では、下村和一郎氏(下村光行氏の尊父)が牛飼いを生業としていた最後の人となった

が、この牛塚や藤森社の祭にも積極的に関わってこられた一人である。

 

6. 七尾七谷の天狗(口承)

 熊野神社からさらに山奥へ入り込むと、七尾七谷と呼ばれる尾根と谷が七重にも連なる山域が

ある。嘗て樵を生業にしていた村人がこの谷に入って働いていたが、暮れなずむ頃になると、白

装束の天狗が現われては“早よう帰れ”と追い立てるように催促するので、怖くなり近づかなく

なってしまった。

 その樵人の名は村山正○と云い、通称“正やん”と呼ばれていた村山信一氏の尊父である。

また其処には魔物(大蛇)がいて、枝打ちに入った樵人が草木を薙ぎ倒したような大きな這い

擦り跡を見つけ、怖くなって引き返したという説話も残っている。因みにこの熊野神社一帯の

山は、昔から“宮山”と呼ばれている。(土井淳一氏 談)

 

7. 小津谷の大蛇[ツチノコ?] 騒動(口承)

 小津谷の生畑へ越える峠道で、佐々江澄氏の尊父が大蛇[ツチノコ?]に遭遇し、その後間も

なく寝込まれてそのまま帰らぬ人になられたと云う聞き伝えがある。

 

8. 原峠入口の「みこし岩」に棲む双頭の白蛇(実見)

 原峠入口にある大岩「みこし岩」には、嘗てより佐々江3社共有の神輿が御旅途中ここで御

休みになったと云う言い伝えがある。土井淳一氏の実見によると、子供の頃この大岩で釣りを

楽しんでいた時、偶然に頭が二叉に分かれた双頭の白蛇を発見された。後にも先にもこの時だけ

だが、今でもよく覚えておられる。白蛇は神の化身とされ、それが「みこし岩」だけに神妙で

ある。(土井淳一氏談)

  ◆◆◆ 第6回は、佐々江の時事年表について紹介します。◆◆◆

    * 近世以前については、広く丹波地方の内容も含まれています *

【 佐々江の時事年表 】

文​化11年 :伊能忠敬第8次測量隊の永井甚左衛門を隊長とする支隊が、旧暦2月23日(1814年

      4月13日)に丹波国測量道中の殿田村で井尻五郎兵衛・井尻甚七の家に止宿する。

      <支隊の経路:八木村 → 殿田村 → 細野下村 → 小野郷上村 → 鷹峰千束町 → 京都>

      因みに、本隊は旧暦2月22日に八木村で福島屋嘉平治・八木七郎右衛門の家に止宿し、

      旧暦2月26日から3月3日まで京都神泉苑町で若狭屋太郎兵衛の家に止宿している。

文政 2年 :佐々江村大石谷で大火(通称:大石の丸焼け)が発生し、安楽寺も類焼する。(1819年)

明治 6年 :船井郡第11区佐々江村と改称される。(1873年)

      四ッ谷村に、同村・佐々江村・田原村の合併校「正心小学校」が開校される。

      塾の閉設に伴って、各地に分校が開設されるようになる。

   7年 :佐々江村学童の通学が困難であるため、正心小学校佐々江分校が設置される。

  10年 :船井郡第4区佐々江村と改称される。

      西南の役(旧薩摩藩士族の反乱)が起こる。

      15年 :佐々江分校が正心小学校から独立して佐々江小学校となる。同校には3名の訓導が

      在籍していた。

  19年 :学校令が公布され、小学校は尋常4年と高等4年に区分されることになった。

  21年 :四ッ谷・佐々江・田原の3小学校を廃止合併して、四ッ谷尋常小学校を本校とする佐々江

      分校が設置される。

  20年 :佐々江安楽寺で、農事天狗会が開催される。[京都府百年の年表]

  22年 :町村合併により、五ヶ荘村・世木村・胡麻郷村の3村が誕生する。

  25年 :佐々江分校が再び独立して佐々江尋常小学校となる。

  27年 :日清戦争が始まる。(8月1日に宣戦布告、戦勝し翌年4月に講和条約を締結)

      この戦争を機に軍備・領土拡張時代の幕開けとなる。(兵力:24万人、戦死:1.3万人)

  28年 :下佐々江の佐々江梅太郎氏が日清戦争出征で、台湾付近航海中に戦死される。

  32年 :民営の京都鉄道が、京都と園部間で鉄道を延伸開業する。

  36年 :物・米価高騰のため、生活困窮人37名が連署で区長宛に借金・借米の嘆願書を提出する。

      翌37年以降に早倉米制度が始まり、その後次第に食糧米に困る人も姿を消すようになって

      大正13年に廃止された。(区の永年保管文書)

      日露戦争が始まる。(2月10日に宣戦布告、戦勝し翌年9月に講和条約を締結)

      地上戦では多大な損害を出し、戦費も国家予算の約6倍の18.3億円に達して、約4割を

      英米からの外債で賄った。(兵力:109万人、戦死:8.8万人)

  37年 :下佐々江の土井太右衛門氏が日露戦争出征で、遼陽戦にて戦死される。

  40年 :自治法改正に伴って行政単位が区・部落から村へ移行し、区・部落の財産所有が禁止される。

  41年 :町村部分林制度条例が制定される。佐々江区も小学校の改築を条件に受入れを余儀なく

      され、区・部落所有の共有林は五ヶ荘村有となる。

  42年 :五ヶ荘村役場が3月に新築される。

      小学校令改定により、佐々江尋常小学校が4年制から6年制となる。

  43年 :五ヶ荘村内3小学校第1回連合運動会が10月16日に開催される。

  44年 :安楽寺住職の田中祐善によって男子を対象に補習塾が開設される。

大正 2年 :佐々江に初めて新品の自転車(佐々江幸太郎氏が購入)が登場する。

      五ヶ荘村青年団佐々江支部が結成され、初代支部長に下村喜治郎氏が就任される。

   3年 :佐々江に初めて自動車が登場する。

      第1次世界大戦勃発(日本は8月23日に同盟国側のドイツに対して宣戦布告する。日本

      を含む連合国側が戦勝し、対ドイツ休戦協定調印を以って大正7年に終結する。翌年6月

      には講和条約を締結)。この戦争は国家の経済・技術力と全国民を総動員する国家総力戦

      となり、大量殺戮兵器の投入や戦線の世界的拡大・長期化によって未曽有の犠牲者を出す

      ことになった。(第1次世界大戦の交戦国総計> 兵力:6千万人、戦死:1.5千万人、

      負傷:2.1千万人)「岩波講座アジア・太平洋戦争Ⅰ」2005年刊

   4年 :佐々江婦人会が結成され、初代会長に田中しん氏が就任される。

   5年 :殿田-(漆谷峠越え)-周山間で乗合馬車が開通する。(翌年には知井~周山間も開通する。)

      デモクラシー・革新思想の高揚により、農村でも農民組合が結成され小作争議等が起こる。

   6年 :上佐々江の八幡宮と下佐々江の熊野神社が、中佐々江の御霊神社に合祀される。

   7年 :佐々江教育会が結成され、初代会長に園田校長が就任される。

      米の買い占めによる米価の暴騰で、7月下旬~9月中旬にかけて米騒動が起こる。

   9年 :殿田~四ッ谷間で乗合バス(木炭車)が開通する。

      四ッ谷郵便局で電信電話回線開設工事(大正8年9月着工)が2月に完了し、回線が開通

      した。佐々江の負担額は金160円50銭で、その内30%を区が負担し残り70%を

      各戸等差割による寄付とした。

      国際連盟が発足し、設立時の加盟国は42ヵ国で日本は常任理事国となる。

  10年 :四ッ谷-(船越峠越え)-周山間で乗合バス(木炭車)が開通し、殿田~周山間で全線開通する。

      ワシントン国際会議で国際協調と軍備縮小の気運が高まる。日本は、米・英・仏との間

      で4カ国条約を結び、海軍主力艦のトン数を制限し以後10年間建造凍結を約束した。

  11年 :公設消防組が五ヶ荘村に発足する。佐々江は第1部として編成され、初代部長に久野敬次郎

      氏が就任される。

      殿田・周山間で、バスが全面運行する。

  12年 :佐々江に初めて営業用トラックが登場する。

      9月1日に関東大震災(M7.9~8.3:死亡・行方不明者10万5千人余)が発生する。

  14年 :普通選挙法(選挙権:男子20歳以上、被選挙権:男子25歳以上)が施行される。

      治安維持法が制定される。3年後には緊急勅令で改定され、最高刑が死刑とされる。

  15年 :消防施設充実を支援するため、佐々江区と消防組青年団後援の地廻り芝居「嵐玉三一座」

      雇い入れ興行を10月に開催し、一夜の観劇に興ずる。興行収入541円60銭、興行師

      費用80円、その他支出197円87銭、残額343円73銭を消防施設に充用した。

昭和 2年 :佐々江で家庭電燈設置工事(大正15年着工)が2月に完了し、212燈の電燈が灯る。

      工費は5,724円9銭9厘で、電燈内訳は定額室内燈10燭光以上が95燈、5燭光

      以上が27燈、従量燈が90燈で、以後も増燈することを条件とした。

      ラジオが普及し始め、翌年には全国で「ラジオ体操」が放送される。

      3月7日に北丹後地震(M7.3:死者2,925人)が発生する。佐々江から消防組部長

      以下10名が竹野郡へ救援に向かう。

   3年 :普通選挙制後初の村会議員選挙が実施され、佐々江からは久野敬次郎氏が当選する。

   4年 :佐々江区会議所を兼ねた神社社務所が新築される。

   5年 :前年の世界恐慌の影響を受けて、日本でも昭和恐慌が起こり特に農村では「豊作飢饉」が

      発生して壊滅的な打撃を被る。

   6年 :佐々江尋常小学校廃止を巡って佐々江分教場問題が起こるも、見送られる。

      柳条湖事件に端を発した満洲事変が勃発する。満洲全土を占領し、15年戦争の発端と

      なる。以降、自由・民主主義的で文化的な風潮は次第に影を潜めていく。

   8年 :佐々江分教場問題が再燃し、村会で佐々江尋常小学校の分教場化が可決された。

   9年 :佐々江尋常小学校が廃止され、五ヶ荘尋常高等小学校佐々江分教場として発足する。

  10年 :御霊神社の本殿・拝殿・神具庫・手洗舎が新築される。

  12年 :支那事変が始まる。満洲事変以降、満洲からの撤退勧告を不服として国際連盟を脱退した

      日本は、中国華北から華中へ武力侵攻して中華民国軍と交戦し中国権益を拡張していく。

      佐々江では、中佐々江の藤原幸治郎氏が第一次動員令による出征で同年北支にて戦死され

      、これ以降5名が戦死、3名が戦病死されている。

  13年 :国家総動員令が施行され、教育現場にも軍国主義の波が押し寄せる。

  15年 :食糧管理制度が布かれる。食糧調整委員によって町村毎に食糧の年間収量や年間消費量の

      実態が調査され、剰余食糧の供出義務が強要された。

  16年 :部落会活動の法制化に伴い末端行政区が部落へ拡大され、部落の財産所有が認められる。

      太平洋戦争が始まる。日本の東南アジアへの武力南進に対抗し、アメリカが日本軍の中国

      からの撤兵を要求して対日石油輸出を全面禁止したのを機に、日本は対米・英・蘭開戦を

      最終的に決定し、本年12月8日に東南アジアへの進駐やハワイへの空襲を開始する。

      佐々江では、下佐々江の下村實氏が南方作戦発令による出征で同年ルソンにて戦死され、

      これ以降24名が戦死、5名が戦病死されている。(安楽寺慰霊碑)

      国民学校令の施行によって、学童は軍事教練と勤労を課されることになった。

  17年 :日常必需品が配給制となり、闇売買が横行して後を絶たなかった。

  19年 :主食の逼迫が益々烈しくなり、村民は平均して最低消費量の60%弱で困窮に耐えた。

  20年 :米・英・中による7月26日のポツダム宣言公表後、日本は8月14日にポツダム宣言の

      受諾を通告し、9月2日の降伏文書調印式を以って世界に甚大な惨禍を齎した15年戦争

      が終結する。ミッドウエー海戦以降アメリカの攻勢が強まり、本年からの本土空襲による

      都市の焦土化や沖縄戦での惨敗にも拘らず、ポツダム宣言公表以後も本土決戦に固執して

      宣言を黙殺し、広島への原爆投下(8/6)、ソ連の対日参戦(8/8)、長崎への原爆投下(8/9)

      を経て、ようやくポツダム宣言を受諾した。

      (第2次世界大戦の主要交戦国総計> 兵力:5.5千万人、戦死兵:2.4千万人、

      傷病兵:1千万人、民間死者:3.1千万人、戦費:7.6千億ドル「岩波講座アジア・

      太平洋戦争Ⅰ」2005年刊)

      原爆投下による広島・長崎両市の死者数:1945年末までに約21万人。

      戦争に加担した団体(警防団/軍人分会/翼壮団)は解散する。

      農村の民主化に向けて第1次農地改革がGHQによって発令される。

      10月に大雨が連日続いて大洪水となり、各地に大きな被害を引き起こす。

  21年 :日本国憲法が11月3日に公布される。新憲法は、戦争惨禍への反省から国民主権・基本

      的人権の尊重・戦争放棄と戦力不保持の基本原則を明確にした。

      農民への農地解放が不十分であるとして、第2次農地改革がGHQによって勧告される。

      部分林の佐々江区返還手続きを完了し、村会決議を以って地積20数町歩の山林が佐々江

      区有林として返還されることになり、長年の懸案であった佐々江区有林復活が実現した。

  22年 :戦争に加担した個人に戦犯公職追放令(村長は無期、助役は準追放で1期のみ)が下る。

      議会制度・地方自治法が改正され、婦人参政権も実現する。

      第1回参議院議員選挙・統一地方議員選挙が行われる。

  23年 :五ヶ荘村農業会が解散し、替って五ヶ荘農業協同組合が創設される。

  25年 :朝鮮戦争が始まる。北朝鮮の韓国への軍事侵攻を機に、戦後の米ソ分割占領で分断された

      南北朝鮮間の国境会戦が勃発し、米軍を中心とする国連派遣軍とソ連の支援を受ける中国

      人民義勇軍による東西冷戦体制の代理戦争へと拡大したが、28年には北緯38度線付近

      の板門店で休戦協定が結ばれる。日本は米軍の出撃・兵站基地として戦争に加担し、警察

      予備隊の創設によって再軍備が開始された。

      ポツダム政令により行政末端が町村単位となって区・部落の財産所有が禁止され、佐々江

      区有林は再び五ヶ荘村に帰属することとなった。

      佐々江区会制度が改正される。

  26年 :国民健康保険直営の五ヶ荘診療所が開設される。藤岡惇医師と看護婦・事務員など3名の

      職員で開業する。

      サンフランシスコ講和条約および日米安全保障条約が調印される。

  28年 :テレビの白黒地上波放送が開始される。

  29年 :就学児童の減少と町村合併を前に、佐々江分校が五ヶ荘小学校へ統合・廃止され、学童は

      バス通学となる。旧校舎は新たに佐々江保育所として日吉町で最初に開設される。

  30年 :旧五ヶ荘村・世木村・胡麻郷村の3村が合併して日吉町となる。

      五ヶ荘小学校が日吉町立五ヶ荘小学校と改称され、保育所が旧村地区に各1ヶ所発足する。

      五ヶ荘村消防団が日吉町消防団の第2分団として再結成され、佐々江消防団も第2分団第

      1部として再編される。

  31年 :五ヶ荘小学校で給食(ミルク給食と副食)が開始され、翌々年には完全給食を実施する。

  32年 :テレビが普及し始める。

      上佐々江川・北谷川の災害復旧が実現し、災害箇所に留まらず危険個所も改修される。

  34年 :五ヶ荘小学校の校舎(教室棟)が完成する。

  35年 :ベトナム戦争が始まる。インドシナ戦争により南北に分断されたベトナムの統一を巡り、

      北緯17度以南のベトナム共和国政府軍と南ベトナム解放民族戦線との内戦が勃発する。

  36年 :建設省から日吉町宮村地区に上桂川治水対策の防災ダムを建設する計画が発表されるも、

      直ちに町を挙げての反対運動が起こり、「宮村ダム(後の日吉ダム)建設反対決議」が発表される。

  38年 :五ヶ荘診療所が国民健康保険直営から個人開業の診療所として再出発する。

  39年 :東京オリンピック(第18回夏季オリンピック)が10月10~24日の日程で開催される。

  40年 :かじや橋・四文下橋・北谷道・明日ヶ谷道が改修・延長される。

      有線放送電話局が日吉町の情報発信基地として農協に開設される。

      米軍が北爆を開始して本格的に軍事介入し、ベトナム戦争は泥沼化していく。

  42年 :水資源開発公団による日吉ダム建設調査費の予算要求発表に対して、蜷川府知事をはじめ

      町議会・地元住民も住民の意向を無視した日吉ダム建設計画に抗議する。

  43年 :日吉町全域にわたり五ヶ荘地区でも有線放送局が開設される。

      老人福祉法促進の気運が高まり、佐々江老人クラブが結成される。会員は43名で、久野敬次郎

      氏が初代会長となる。

      経済企画庁の日吉ダム予算要求発表に対して、住民の意向を無視した一方的な日吉ダムの

      建設計画に町議会が「日吉ダム建設反対意見書」を提出して抗議する。

  45年 :新安保条約が自動延長される。

      日本万国博覧会が3月14日より6ヶ月間、大阪千里丘陵で開催される。

      下佐々江町道・道奥谷林道が改修され、かじや橋・消防道・北谷町道・府道全面が舗装される。

      NHKが殿田大向山にテレビ中継放送所(UHF)を設置する。

      佐々江壮年会が結成され、下村修二氏が初代会長となる。

  46年 :四ッ谷の海老谷川にアマゴの稚魚が放流される。

  47年 :山村振興事業国庫助成の期限を目前に控え、佐々江区民会館建設の具体化として敷地交渉

      が始まり、翌年には国庫助成と町助成を受けて京都筒井工務店により着工される。

  48年 :佐々江区テレビ共同受信中継局施設がテレビの難視聴を解消するために開設され、同施設

      を維持管理するテレビ共聴施設組合が設立される。

      五ヶ荘小学校の運動場が完成する。

      田植機が普及し始める。

  49年 :佐々江区民会館改め佐々江生活改善センターが完成する。

      地域体育振興会・佐々江支部が結成される。

      五ヶ荘小学校に簡易プールが完成する。

  50年 :ベトナム戦争がサイゴン陥落により終結し、ベトナムは南北統一を果した。

      第2次明日ヶ谷道改修工事が再議されるも、1期完成は困難で完成までには期日を要する。

  51年 :日吉町民憲章が制定される。

      日吉町新庁舎・町民センターが完成する。

  52年 :法人「佐々江生産森林組合」が11月30日に結成される。

  53年 :簡易水道事業として上水道施設が12月20日に完成し、佐々江区民390人の水亀となる。

      併せて消防施設整備事業として消火栓が各集落各所の水道施設に設置される。

  54年 :五ヶ荘小学校では2学期より米飯給食を開始する。

  55年 :山村振興対策事業として佐々江山村広場(面積4,200m2)が総事業費1,516万円

      で完成する。

  57年 :日吉町の町花が「躑躅(ツツジ)」、町木が「杉」に決定される。

  58年 :四ッ谷岡安神社の子供神輿が20年ぶりに復活する。

  60年 :佐々江保育所が興風保育所に統合され、廃所となる。

  63年 :第43回国民体育大会(2巡目)が開催され、夏季および秋季は京都が開催地となる。

平成 3年 :五ヶ荘小学校にプールが完成する。

   9年 :五ヶ荘小学校に情報機器整備の一環としてコンピュータ3台が設置される。

      神楽坂トンネル(全長1,015m・幅員8m・対向2車線の府道19号線:園部平屋線)が

      開通する。

  11年 :防災行政無線局が日吉町を事業主体として開設され、有線放送電話局はその役目を終える。

      佐々江トンネル(全長116m・幅員10m・対向2車線の府道19号線:園部平屋線)が

      開通する。

  12年 :五ヶ荘小学校に下水道整備の一環として水洗化工事が約1,628万円で完了する。

  13年 :五ヶ荘小学校に情報機器整備の一環としてコンピュータ7台が設置される。

  15年 :下排水処理施設が佐々江区下排水事業として3月30日に完成し、91戸の下排水処理が

      開始される。

  17年 :日吉町立五ヶ荘小学校を南丹市立五ヶ荘小学校と改称する。

  19年 :FTTH方式によるCATVが開設され、併せてインターネット・サービスも接続できる

      ようになる。

      五ヶ荘小学校が殿田小学校に統合され、廃校となる。

  24年 :佐々江体育振興会が過疎化と高齢化に抗しきれず解散となり、今後は佐々江区事業として

      体育活動を継承する。

  27年 :「住みよいむらづくり協議会」が7月4日に設立され、五ヶ荘地区の住民が主体となって

      南丹市とも連携しながら充実感ある豊かな協同地域を目指して活動を開始した。

  31年 :1月30日を以って、佐々江生産森林組合の解散および佐々江区への財産譲渡を決議する。

令和 1年 :7月28日の清算結了総会にて、結了報告承認後に解散登記及び確定申告を完了した。

[古里70年の思い出p23~38][日吉町誌上巻・下巻Ⅰ・Ⅱ・平成版 年表]

  ◆◆◆ 第5回は、佐々江の社会史(3)について紹介します。◆◆◆

    * 近世以前については、広く丹波地方の内容も含まれています *

【 口丹波の一揆 】

 天明7年(1787)11月、口丹波地方で未曽有の飢饉と異常な米価高騰を背景とした一揆が起きた。

この年は全国的な飢饉の年であり、加えて米価の目に余る急騰が、米を買って生活する民はもとより過酷

な年貢で自家保有米の少ない農民にも重大な打撃となった。幕府は、酒の醸造を抑えて市場に出回る米を

増やす酒造制限令を発布して社会不安の解消に努めたが、五月には江戸で米騒動が起き全国に拡がった。

 口丹波43ヵ村でも貧窮する3万5千の百姓が地鳴りをたてて席捲し、強欲を貪る酒屋・米屋の打毀し

を図り百姓の上に君臨していた大名・代官の心胆を寒からしめる大騒動となった。一揆の発端は、約百人

の百姓が八木村の西田河原(大堰河原)に集結して寄合を開き、米価・酒価の値下げを要求するため数名

の頭取りを八木村酒屋に送って交渉したことから始った。当初は、交渉により値下げを実現しようとする

交渉派と「威言ばかりにては手ぬるい」と主張する打毀し強硬派に分かれていたが、酒屋・米屋との対応

をめぐって打毀し強硬派が急速に台頭してきた。一旦打毀しが始まると大群の百姓達は堰を切ったように

鋤や鎌を手に取って行動を起こし、その勢いはまさに燎原の火の如く数日にして口丹波一円に拡がって、

およそ半月に亘り口丹波の天地を揺るがした。事件の結末は、2百数十名の百姓達の逮捕・投獄となり、

頭取りたちは京都町奉行所や六角牢において非業の獄死を遂げ、生きて郷里に帰り着いた者は僅か20数

名に過ぎなかったという。しかし彼らの掲げた要求は、翌年の5月に京都町奉行所の判決で「酒屋・米屋

は厳に戒め置く」、「騒動を起こした百姓の頭取りは所払いと十貫文の過料、その他は急度叱り」となり、

落着した。因みに一揆勢が園部城下に迫った時、周辺農村の村役人達には藩主側の守備隊として動員令が

下った。船井郡下小畑村の園部藩郷士である船越喜平次が、殿田村役人の与惣左衛門と新兵衛に相談して

出勤を要請するために、奥筋の村役人へ出した書状「口上覚」(井上文書)に、下佐々江の与兵衛や室谷の

彦右衛門の名が挙がっている。[天明の地鳴り~口丹波一揆物語~][日吉町誌上巻p326~9]

[ふるさと口丹波風土記p231~238][図説丹波八木の歴史第三巻p134~7]

 寛政11年(1799)にも日吉・和知で一揆が起り、『小林九兵衛日記』(園部町史史料編Ⅳ)には次

のように記されている。「寛政11年12月27日夜より、和知筋の上林・曽称・中台・胡麻谷・志和賀・

殿田辺の者、須知村の北芝へ集まり、之人凡そ六千ばかりと申す事に候。28・29日切に応対、残らず

引き申し候。1軒も潰しは申さず候。紅井屋七兵衛、本陣きぬ屋が米を買い占め候に付き集り申し候。」

この日吉・和知の一揆は、米の買い占めに抗議して6千人を動員しながらも、打毀しはせず示威行動だけ

で引き揚げたため、一揆には至っていない。[日吉町誌上巻p324~6]

 時代は下って文化6年(1809)日吉殿田村で、藩政の末端組織であった庄屋・年寄による村政疑惑

に対して村民が立ち上がり藩に改革を訴えた「殿田村一件」が起きた。筏と船の水運業で船井郡内代一位

の高額所得村であった殿田村は、天明の飢饉以来不況が深刻化しても減ることのない高税(最高時7割)

に苦しむ中、役人は杜撰な記帳で役得を稼いでおり、百姓は新田開拓費・庄屋事務費・村落行事明細など

で村政に不信感を抱いて税滞納が長期化し高額となっていた。しかし一揆には至らず、船越喜平次を中心

とした代官添役としての大庄屋が村役人と百姓の仲介役を務めて和解・落着した。この一件は、生活倹約

法・庄屋事務費削減法・税滞納対策などの改革案を起草できる才能や義民意識を持った百姓達が、団結し

忍耐強く戦い抜いて勝利した世直し事件であった。事の顛末は船越喜平次が記した『殿田村一件略日記』

全3巻(園部町史史料編Ⅳ)に詳しい。[日吉町誌上巻p330~440]

 

【 近世の郷士 】

 平安末期から中世にかけて日吉町域に入植した武士団(兵農兼業集団)の末裔として近世へ引き継いだ

郷士・苗字帯刀人には、筆頭の上木住村:湯浅五郎兵衛、次頭の北大谷村(四ッ谷):佐々木弥右衛門、他

の主だった人の内に佐々江村:佐々江伝兵衛の名が残っている。

『園部藩御直禮並に帯刀人由緒』天明六年改正之古記也。今又新に令書寫之卒。文久元年六月吉日

 「佐々江村 佐々江傳兵衛

  私儀古来ゟ(ヨリ)帯刀御赦免御直禮等相勤申候、帯刀御直禮之由緒及年来候ゆへ委細相知れ不申候得共、

  傳兵衛祖父傳兵衛と申もの 福源院様丹後御在番之節

  御舘御廣間御番被仰付候由傳兵衛之舊(旧)記に有之、然は其由来有之事歟(カ)、元祖者佐々江加賀守と

  いふもの織田信長公に仕へ、其子大和守佐々江を領し其子大炊助時代滅亡、其子孫佐々江に居住之由

  右傳兵衛舊(旧)記所持罷(マカ)在候。」

[日吉町概説p19~20][船井郡誌p334~8]

【 近世の生産物

「船井郡誌」記載の天保9年(1838)における日吉町域内の産地産物調査によると、佐々江では松茸

・五倍子(フシ)の粉(タンニン原料)・柿(渋染料・薬用)・薪把・炭・黒木(づし)などが挙がっている。

[日吉町誌上巻p458~77][船井郡誌p86~89]

 江戸時代元禄13年(1700)の丹波国郷帳に記された船井郡の村名・石高には、佐々江村は134

石1升4合とあり、下って明治9年(1876)の地租改正に際して丹波6郡御料私領高附帳に記された

船井郡の村名・領主・石高にも、佐々江村は小出信濃守領分134石1升4合とあって、元禄丹波国郷帳

と同じ石高が記載されている。[船井郡誌p36・55]

 船運の発達した江戸期には京・大阪に人口が集中して年貢米の大量輸送が必要となり、幕府は河村瑞賢

に東廻り航路(菱垣廻船)と西廻り航路(北前船)の開拓を命じた。寛文12年(1672)西廻り航路

の開設によって、日本海沿岸の生産物が京・大阪へ大量輸送され、同時に京・大阪の生産物の販路も日本

海沿岸へと拡がった。しかし、この航路には米の輸送時期には季節風が強く、冬期には海難による運航の

不能や日数の長期化もあり、短期間の輸送ができず経済的にも負担が重くなるため、日本海側から大消費

地の京・大阪を結ぶ河川水路の開発を商人達は計画した。「福知山藩日記」の寛文7年(1667)項には

、「同年以前に宮津・福知山藩米が由良川・大堰川を経由して嵯峨回りで大阪へ運ばれていた」とある。

これは、由良川河口の由良湊より福知山・綾部・和知を経て黒田(現京丹波町)辺りまでを舟運で、そこ

から殿田(現南丹市)までの約10kmを人力車や牛馬で陸送して大堰川へ結び、京・大阪に輸送したと

考えられる。また「天竜寺文書」には、宝永2年(1705)に「桂川罧原(フシハラ)堤に丹後由良川筋からの

穀物等を納める蔵が設けられた」とあり、由良湊から嵯峨までの輸送路があったと考えられる。

 慶長11年(1606)に角倉了以が大堰川を開削する迄は八木(現南丹市)の鳥羽港で陸揚げされて

いたが、開削後は角倉役所の管理の下に丹波の生産物が大量に京・大阪へと送られるようになると、商人

達もより有利な輸送路を求めて分水嶺の最も低い由良川と大堰川・加古川を利用するようになった。

 元禄13年(1700)には、京商人と思しき諏訪町半左衛門達が、由良湊から京嵯峨までの川舟通運

を綾部藩(同藩役所日記抜書)等に願い出ており、次いで享保10年(1705)にも同様の通船願いが

あったが、この通船路について具体的な準備が進められたのは、宝暦9年(1759)に長柄屋治兵衛が

出した綾部藩への通船願いであった。野田町朝子氏蔵の資料によると、この計画は大堰川筋嵯峨から船井

郡殿田まで舟運、それより同郡黒瀬村まで陸送、そこから由良湊まで由良川舟運という経路で、その間の

村々に対する諸条件を、井堰・綱引道・船着場から船頭の行い・怪我等に至るまで細かく配慮している。

これに対して、由良川筋沿岸村々の庄屋は承諾書「通船為取替証文之事」を長柄屋に出し、京都奉行所も

「御勝手に通船なさるべく候」としたが遂に実現されなかった。この通船計画は以後も受け継がれて次々

と出願され、文政11年(1828)には城州淀住人の河村与三右衛門が、由良湊から黒瀬村まで由良川

舟運、それより丹波国上胡麻村まで陸送、そこから殿田村までを胡麻川舟運という経路で通船を願い出て

、幕府の役人が村々を廻り故障の有無を調べた。この出願では江戸表勘定所組頭より園部藩に達書があり

、同藩は領内の有力農民であった殿田村の井尻甚七ら三名を調停役として村々との交渉に当らせて、河村

与三右衛門と議定書を結んだ。通船の初期には、高屋川支流の畑川に船着場(塩ヤ渕)があり、胡麻川の船

着場(隅田)までの約半里を陸送していたと考えられるが、この経路は短期間で廃止されたようである。

[「丹波」第8号(丹波史談会):丹後から京への通船計画p99~108][綾部市史][福知山市史]

【 炭の生産 】

 南丹市日吉町域では、平成10年頃まで炭焼きが行われていたが、以降は後継者がいなくなり製炭技術

も途絶えていた。里山再生の気運が高まる中、平成19年に日吉町域の伝統的な土窯を保存するために、

嘗て炭焼き職人だった四ッ谷在住の上原慶太郎・福島隆治・磯部茂氏3名の指導のもと、府民の森ひよし

で「ひよし窯」と命名された木炭窯が再現された。3氏によると、終戦前後から昭和30年代にかけての

四ッ谷では炭焼きを専業としていた人は殆どなく、農林業の合間に従事する副業として営まれていた。

 炭焼きの営業形態としては、買主が個人山または共有山から炭山を買って自ら生産する方法や「山こぎ」

と呼ばれる商売人が炭山を買って賃焼き人を雇い生産する方法に大別されるが、他にも山主が所有する山

で自ら生産するとか、賃焼き人を雇って生産することもあった。佐々江では、佐々江富之助氏が農閑期に

道奥谷鉱山近くで窯を打ち、炭焼き小屋を建てて炭作りをされていた。四ッ谷の磯部茂氏も佐々江で1窯

打って炭を作っていたと記憶されている。

[ひよし窯製作調査報告書p14~8,p35~40]

【 莨(たばこ)の生産 】

 明治期になると佐々江が主産地となり、幕政期の主産地だった世木は衰退していった。葉たばこ専売法

が公布された明治29年(1896)前後、佐々江の葉煙草は京都市場で名声を博していたが、その後の

法改正で耕作規制がより厳しくなり、明治40年には佐々江から姿を消した。佐々江では、下村修二氏宅

の上手にある給油所跡に嘗て莨粉(たばこ)の乾燥場があった。

[日吉町誌上巻p472]

 

【 マンガンの生産 】

 日吉町域にはマンガン鉱の他に、耐火煉瓦・硝子・陶磁器の原料となる硅石も採掘されていた。主産地

は畑郷・海老坂・生畑だったが、何れも鉱床が小さくすぐ掘り尽してしまい事業として長続きしなかった。

日吉町で最初にマンガン鉱が採掘されたのは世木の切明鉱山で、丹波では最古の明治28年(1895)

頃のことであり、二酸化マンガン約5千トンを産出した。

 五ヶ荘地区では、明治38年頃に佐々江明日ヶ谷の岩見鉱山で採掘が始まった。佐々江には黒鉛の鉱床

が僅かながらあり、昭和10年頃に藤原慶次郎氏が採掘を始めたが産出量が少なく事業化できなかったと

いう。[久野敬次郎氏の証言]

 切明・道奥谷・弥谷・生畑の四大鉱山は、従業員数15~20人規模で月産100~200トンを産出

(炭酸マンガンも含む)した。特に佐々江の道奥谷鉱山は、昭和12年(1937)頃年産2,000トン

以上に及び、当時日本第一の鉱山と言われた。日吉町のマンガン鉱は「殿田マンガン」と呼ばれ、製鋼用

の炭酸マンガンと電池用の二酸化マンガンに大別された。後者の価額は前者に比して3倍程の高値だった

が、産出量は1割程度であった。採掘されたマンガン鉱は、辻中鉱業と昭和興業(前身は帝国マンガンで

戦時下「鉱石配給統制」戦前陸軍が管轄)の2社が主に集鉱し、JR殿田駅(現日吉駅)で荷積みされて

新日本製鉄(前身は八幡製鉄)・川崎製鉄・日本鋼管・住友金属などの製鋼企業へ輸送された。昭和40年

頃になると鉱石も枯渇して採掘割れとなり、日吉町の鉱山は次々と閉山に追い込まれ昭和45年(1970)

には姿を消した。

 船井郡・北桑田郡を中心に産出された鉱石は良質の二酸化マンガンが主であったために、染料・釉薬・

マッチ原料・蓄電池などの酸化剤として重宝され、また不純物の少ない良質品だったことから製鋼原料用

よりも5~7割高価で、不純物の多い他産地に比べ3倍程の高値で取引された。昭和11年(1936)

頃のマンガン採掘について、美山町在住の加藤末男氏は『日ごと感謝で 美山町とわたし』で、次のよう

に記している。

「マンガン採掘は大変危険な仕事で、午前中に削岩機で深さ1mの穴を15~20本掘り、ダイナマイト

60本を仕込んで発破する。坑内は削岩機の音と粉塵で、何を言っても通じず2m先も見えない。マスク

はしているが、真白な粉塵で全身雪達磨のようである、削岩機が出回るのは戦後で、それ以前は鑿[ノミ]と

玄能[ゲンノウ]を使って手で掘った。発破を終えて坑外に出てから風圧で粉塵を取り払い、昼食を済ませる

と発破後の掘り削りを行う。砕かれたマンガン鉱石は、手子[テゴ]と云って選鉱夫を兼ねた男5名と女2

名の運搬夫がトロッコに積んで坑外へ運び出した。坑道は奥行きが深く100mはあり、幾つもの枝坑に

分かれているため、初参者なら迷って出口が判らなくなる。運び出された鉱石は、洗鉱夫によって水洗・

・選別されて、翌日全員で架線に吊って府道まで降ろした。架線の無い所では、鉱石を塩カマス(1俵が

約70 kg)に詰め、木馬に8~10俵積んで急な坂道をワイヤ頼りにじわじわと降ろすのであるが、一歩

間違えば命取りの危険な作業であった。木馬も無い所では、人が担いで山を降りるという大変な重労働で

あった。」[第3章p108~110]「小学校教員の初給料が25円だった昭和11年半ば頃に、美山町

荒倉鉱山の採鉱夫は毎月の受取仕事(出来高払)で35~45円になる月もあった。5円もあれば料亭で

4人たらふく飲み食いができた当時、いつも料亭で騒いでいるのはマンガン山の男達であった。」

[第1章p35]

 マンガンの歴史を遡ると、日本では7世紀初頭に法隆寺壁画の罅割れを防止するため最初に使用されて

いる。そして江戸時代には、瓦や陶器・土管の釉薬などに用いていたようであるが、記録としては殆んど

残っていない。1774年、スウェーデンのシェーレにより原子番号25の金属元素として発見された。

万延元年(1860)に蘭学者の川本幸民が著した『科学新書』には、当字「満俺」と漢字表記された。

 丹波のマンガン鉱山の歴史に詳しい安部数雄氏(大正8年生:日吉町在住)によると、「父はマンガン

の草分けだった。兄が与瀨与平氏(四国出身)と共に丹波マンガン鉱山発祥の地である日吉町の切明鉱山

を1990年代初期に発見し、6~7人の仲間と採掘を始めた。さらには海老谷川を遡ってマンガン鉱脈

を探し当てた。私も昭和10~30年(1935~55)に日吉町の駅前通りで事務所を構えてマンガン

鉱山を経営し、マンガン産業が盛んになる頃には従業員も100人程になっていた。マンガン鉱山では、

昭和10年頃から朝鮮人労働者が増え始め主に採掘に従事したが、それまでの鉱山は殆んど被差別部落の

男性の仕事で一部では女性も坑内の採掘や運搬に従事していた」と云う。

[丹波マンガン記念館の7300日p47~51]

 戦時中の鉱山採掘は、人力に頼るところが多く人海戦術で行われた。丹波には約300もの鉱山があり、

戦争激化に伴う国内労働力不足で強制連行された朝鮮人・中国人や被差別部落の人々3,000人以上が

劣悪な環境下でマンガン鉱の採掘を強要され、あるいは余儀なくされていた。

日吉町では、マンガン鉱山労働者の多くが被差別部落の人々で、他に戦時中に強制連行されてきた朝鮮・

・中国の人々や、山林を持たず農地も少なく生活の糧を求める地元住民も従事していた。「殿田マンガン」

が有名になった陰には、これら多くの人々の犠牲があったことを忘れてはならない。

 丹波地方のマンガン鉱床は分断されていて量が少なく、鉱山経営の多くが小規模で技術も未熟であった

ため、採掘作業をしていた労働者に塵[ジン]肺という重大な労働災害をもたらした。「じん肺」は、鉱山等

で長期に亘り吸った粉塵のために、肺胞の繊維化症状が進行して呼吸不全や呼吸器系の感染症を引き起す

病気であるが、当初は肺結核と診断され、共同で使用していた井戸水が感染源と信じられていた。

 昭和30年(1955)に五ヶ荘村で開業した藤岡惇医師は、マンガン中毒を疑って坑道から川へ流れ

出る水の水質検査や健康への影響の研究をしていたが、喀痰でも菌が出ないのに肺結核症状が続くことを

疑問に思い、当時結核の権威であった京都工場保健会の中村医師に相談して、レントゲン写真から「珪肺

によく似ているが、写りが薄いのでじん肺ではないか」との助言を得た。昭和35年(1960)には「

じん肺法」が成立し、産業医学では「じん肺」が新たな問題になっていたが、日吉町保健婦の吉田幸永氏

や生活改善グループの桂木みち子氏らによるじん肺患者の職歴調査やマンガン鉱山労働者の名簿作りなど

の献身的な努力と藤岡医師との連携が結実して、町議会も検診費20万円の補正予算を承認し、昭和49

年(1974)「じん肺の自主検診」を実現した。

 昭和51年(1976)に、日吉町独自の検診結果をもとに国の責任による検診制度の導入を交渉して、

労働基準局主催でマンガン中毒も併せたじん肺検診が実施された。昭和53年(1978)からは京都府

の責任でじん肺検診が実施されるようになり、その後も彼女達はじん肺患者同盟とともに労災補償認定の

ために奔走し、じん肺検診補償運動に大きな足跡を残した。じん肺は、被災者にとって今尚苦しみの元凶

であり、決して過去のことではないのである。[丹波マンガン じん肺と女たちの軌跡p6~26]

[日吉町概説p44][日吉町誌上巻p663~8][日吉町誌下巻Ⅱp1057~8]

[ひよし昔ばなしp134~8][美山町誌下巻p548~9]

【 早倉米 】

 佐々江には、大正期まで主な年間行事として端境期(新米が出回る前の時期)に食糧米を貸し出す制度

があった。農繁期にかかって現金収入のない期間の借米制度は、その当時他村にも国にもない唯一の福祉

制度で、毎年6月初旬に最高限度を大家族5斗入2俵までとして貸し出し、借米はその年の12月に返済

することになっていた。この早倉米(サクラマイ)制度は、物・米価高騰のために生活困窮人37名が連署で

借金・借米の嘆願書を区長宛に提出した明治36~37年以後(区の永年保管文書)に始まり、品種改良

技術の向上や肥料普及による米の増収で食糧米に困る人も少なくなり姿を消すようになった大正13年に

廃止された。[古里70年の思い出p10~1]

【 頼母子講 】

 佐々江では、明治から大正中期にかけて金融取引の手法として頼母子(タノモシ)講という相互扶助組織が

あった。最初の申込者が講元となって、最優先で借り受けることを条件に有志の賛同者10人程で構成

した。講は、講元へ所定利率で貸し出したり、歩合に競り勝った者が最初に借りたり、保証人の有無など

様々な協議をして運営する。大正11年産業組合の設立に伴い、信用に応じた各人の借入ができるように

なってこの講も姿を消していった。[古里70年の思い出p12]

【 松茸山区分収金制度 】

 明治37年頃から松茸が秋の珍味として市場価値を認められるようになると、佐々江の松茸山では希望

する山主が所有山について自己採取した残余分を年1回の区主催の競り市に附すことを承諾し、区が希望

山主の山林と区有林を競り市にかけて競り価格と採取人を登録、即日に手附金を授受して残金の納入日を

指定する等の手続きを経て、以後特別不作でない限り収納した金額から所定の手数料(分収金)を差引き

山主に支払うという制度を設けた。この制度によって、区民が松茸景気を分かち合い、区も分収金収入に

よる円滑な財政運営ができるようになり、佐々江全体が多大な恩恵を享受したのである。

 その後、山主の総意で所有山林を1ヶ所に限り自由林とすることが承認され、昭和42年頃からは従来

の分収金30%を20%に引き下げて今日に至っている。最近では全国的な松枯れ被害により分収金収入

も激減し、競り市の運営すら危ぶまれている。

[古里70年の思い出p12~3][ひよし昔ばなしp231~4]

 平成24年には、永らく執り行ってきた口頭および入札による競り市から、投げ込み入札による競売へ

競り方式が変更された。運営はより一層の緊縮を余儀なくされ、制度存亡の危機に立たされている状況で

ある。

  ◆◆◆ 第4回は、佐々江の社会史(2)について紹介します。◆◆◆

    * 近世以前については、広く丹波地方の内容も含まれています *

【 律令制と田原郷 】

宝元年(701)大宝律令制定に伴い、船井郡内10郷の1つとして「田原郷」が造られ、旧世木村

(殿田・木住・中・中世木・天若・生畑)と旧胡麻郷村(胡麻・上胡麻・畑郷・保野田・志和賀)および

旧五箇荘村(四ッ谷・佐々江・田原)含む地域が、地勢的にも整合した1纏りの行政区域となった。

 延喜20年(920)には、諸国から貢納された官馬の飼育・調教にあたった左馬寮が胡麻に置かれた。

延喜式の「左右馬寮」には、「丹波国胡麻牧左寮・・・<中略>・・・右諸国所レ貢馬牛各放二件牧一、

随レ事繋用」とあり、広く胡麻川流域一帯に広がっていたと考えられる。

 旧五箇荘村は中世には五箇荘と称し、弓の名人で和歌に優れた舊源三位頼政の所領(鵺退治の恩賞地)

であったが、頼政の敗死後に平氏所領となり、平氏西奔後には没官領となった。しかし、源頼政の子頼兼

による文治2年の愁訴によりこの領を頼兼に返付して仙洞御領としたことが、鎌倉時代末期(1300)

の『吾妻鏡』文治2年(1186)3月8日條に記されている。

 また田原郷は古代の文献には出ていないが、『摂簶渡荘目録』の嘉元3年(1305)4月条に法勝寺

領の1つとして「丹波国田原桐野牧・免田75町・加納2百町2段5代」とあり、俊寛僧都が執行(上席

僧職)を務めた法勝寺の荘園として田原桐野牧を領有していた。因みに、「摂簶渡荘」は藤原氏の氏長者

である藤氏長者の地位に付随して伝領される所領のことで、「加納」は新規開田の私有地のことである。

 また明治期編纂の『地理志料』には「今田原村あり」、明治後期刊の『地名辞書』には「五箇庄村・世木

村」とあり、現日吉町田原・殿田・保野田・胡麻が郷の中心地であったと考えられる。

 元暦2年(1185)正月19日付『文覚45ヶ条起請文』前文(神護寺文書)に「吉富庄内宇都郷は、

故左馬頭源朝臣義朝の私領也、而に平治元年の比、かの義朝朝臣謀反の後、没官の所たるにより、平家の

所領となり畢。その後故大納言成親卿伝領の間、神吉・矢代・熊田・志摩・刑部等郷を副え加え、一円の

庄号をなし院御願法華堂に寄進せむ所なり」とあり、田原郷近隣の郷は吉富荘の一部を成していた。

[日吉町誌上巻p30・37~8・63][船井郡誌p22・227・324]

[図説丹波八木の歴史第二巻p43・79][図説園部の歴史p60]

【 条理地割の名残 】

 奈良時代中期の天平15年(743)に条里による土地表記の初見があり、公班田及び墾田管理の必要

から生まれたが、荘園制の衰退と共に条里呼称法も使用されなくなり、太閤検地以降は一部の地名に残る

のみとなった。四ッ谷には市ノ坪、保野田には岩ヶ坪・大坪などが今日迄残っている。但しこれらの呼称

は、条理が施行されていない地域にも多く遺存する地名であるため、条理遺称だけで条理制の施行を確証

することはできず、加えて条理遺構による検証が必要である。

 条理制は、原則として一辺を1町(約109m)とする正方形1区画を基本単位とし「坪」又は「坊」

と呼んだ。坪を6×6に区画して「里」と呼び、横列を「条」・縦列を「里」として、坪並の番号配列に

より並行式と千鳥式に分類された。坪はさらに10等分に区画して「段」と呼び、分割方法により半折型

と長地型があった。条理制の起源については、飛鳥時代あるいは奈良時代初期の班田収授制の導入に伴い

施行されたと考えられてきたが、近年では口分田の整理や墾田の増加に伴って私有地の所有権や境界を

画定する必要に迫られて発布した墾田永年私財法以降に施行されるようになったと云う説が主流である。

条理制による呼称法と土地の絶対的位置が確定すると、土地所有権の明示も容易になるため条理に沿った

墾田開発が地域有力者を中心に進められていくことになる。[日吉町誌上巻p32]

[図説丹波八木の歴史第二巻p44~7][新修亀岡市史 本文編第一巻p446~9]

【 中世の荘園 】

 荘園の起源は8~9世紀に遡り、律令国家の耕地拡大政策の一環として貴族・有力大寺社に給付される

「初期荘園」と呼ばれる墾田・開発予定地の耕地と荘園経営の中心である荘所・荘家のみで構成された。

固有の荘民を持たず耕作は公民が担っており、荘園の設定と経営は律令国家機構に依存していたために、

律令国家の衰退と共に消滅した。

 10~11世紀になると、権限を強化された国司が任国内の耕地を免田として貴族・大寺社に給付する

「免田型荘園」が出現し、免田に指定された耕地では官物と雑役の一方もしくは両方の税が免除され、

その分が荘園領主の収入となった。特定の公民が国衙と荘園領主との両属関係を結び、寄人となって免田

の耕作を請け負った。この段階の荘園は、免田の集合体で一円的な纏まりを持っていなかった。

 11世紀中葉になると、村落を中心に耕地だけでなく山野河海を含めた一定領域を持つ「領域型荘園」

が成立し、12世紀に入ると王家領荘園の立荘を契機に爆発的に増加して、一国の半分程は荘園で残りは

国衙領(公領)という「荘園公領制」が形成された。

「吉富荘」は、承安四年(1174)に後白河法皇の近臣であった藤原成親が、私領宇都郷に神吉・矢代

・熊田・志摩・刑部の5郷を加えて一円の荘園とし法皇の御願法華堂に寄進したことを受けて、同年10

月20日に御使・穀使立会の下で牓示(ボウジ)打ちが行われ、王家領荘園として立荘された。その領域は

東西南北の境界を示す「四至」と四隅を示す「牓示」によって画されるが、『丹波国吉富荘絵図写』には

三角形の屋根を被せた杭状の「牓示」が描かれている。当荘内には、在庁官人や国衙寄人・役僧が住み、

他領主の私領や寄人が混在するなど、複合的な荘域構成を有する典型的な王家領荘園となっている。絵図

の分析から、本荘は宇都・神吉・矢代・熊田の4郷に、新荘は志摩・刑部の2郷に相当すると考えられて

いる。その後、神護寺復興に尽力した勧進聖の文覚上人が、寿永3年(1184)4月に源頼朝から寄進

を受けた本荘と、元暦元年(1184)5月に後白河法皇から寄進を受けた御願法華堂領の新荘を併せて

神護寺の根本寺領の1つに加えた。

「船井荘」は、文応2年(1261)2月付「摂津勝尾寺僧衆徒等訴状案」『鎌倉遺文』に初めてその名

が現れ、当荘園開発は既に鎌倉時代初期には始まっていたと考えられるが、詳細を窺えるようになるのは

建武3年(1336)5月付「足利尊氏寄進状案」で湊川の戦いに勝利した足利尊氏により「天神の加護」

を以って地頭職を北野社に寄進して以降のことである。『北野社家日記』長亨3年(1489)5月26日

条「舟井庄11村闕所分目録」によると、当時の舟井庄は11村から成っており八田・三戸・宍人・新江

・舟坂・興田・大・黒田の8ヶ村の名が記されている。北野社は将軍や丹波守護の細川氏と強固な関係を

築いていくが、一方では守護代官の横領や武家による侵略も荘内で度々起こっている。

「氷所保」は、平安時代中期の延喜式によると丹波の氷室として「丹波国桑田郡池辺一所」が記されており、

現八木町神吉および氷所に比定されている。氷室は主に供御(天皇の食事)としてあるいは朝廷の行事に

用いられる氷を貯蔵しておく場所で、氷の管理を担う「氷室司」や供御人の活動が推測される。室町時代

以降、康正2年(1456)の『臥雲日件録』3月16日条に「六月朔氷」の催しで「丹波氷所」から氷

が献ぜられたと記しており、文明5年(1473)には後土御門天皇の綸旨(リンジ)で当所は「禁裏御料所

丹波国氷所の内氷室」と記されている。やがて献氷を通じた朝廷との関係も希薄になり、長亨年間に作成

された「北野社領諸国所々目録」『北野神社文書』には丹波国内の所領として「舟井庄」と共に「氷所」

の名が記されている。

 日吉町域内の中世荘園は小さく分断されていたが、その中に佐々江荘という荘園名が歴史書に出てくる。

天文21年(1552)川勝広継が、佐々江荘を大谷荘(現四ッ谷)と共に足利義輝から拝領している。

豊臣秀吉の晩年時代に丹波検地奉行の前田玄以が郷・荘を廃して水系単位で村を再編した時、日吉町内は

14程の村に分割され佐々江荘も佐々江村となった。その後、徳川三代将軍家光の時代にさらに40程の

小村に細分割されたが、佐々江村はそのまま残されている。

[日吉町誌上巻p86,106~9,506~9][図説丹波八木の歴史第二巻p76~93,114~9]

「丹波大谷村佐々木文書」は、静岡県掛川市の古書肆の所蔵文書を所蔵者の協力によって史料編纂所が

調査したもので、文書群全体は中世 文書三十九通、近世文書七通から成る。相国寺領丹波国五箇庄(田原

桐野牧)大谷村の公文佐々木家に伝わったものである。

【 中世の農具と方言 】

 日吉町域内は、古代より洛西・播州・摂州から若狭への街道域であり、それらの地域との交流も深くて、

農業の生産用具などは丹波・丹後型ではなく山城・摂津型で、例えば備中鍬は若丹では四又だが、当域では

山城型の三又である。また日常言語も若丹(若狭・丹後・丹波)型ではなく南方の摂丹(摂津・南丹波)型

で、京言葉より大阪弁に近い。[日吉町誌上巻p456]

 

【 大堰川の流筏 】

 続日本紀には、天平4年(732)9月に近江・丹波・播磨・備中など用材の豊富な国々で遣唐使船を

建造させており、天平宝字4年(760)と推定される法華寺金堂の造営に関する報告書では、丹波山の

川津(八木・園部)で檜の榑[クレ]100本と椙[スギ]の榑150本を買い求め、丹波山作所(杣[ソマ])で、

延べ1,763人を雇って新たに用材2,031本を伐り出し、合計2,281本を整えて筏83床に組み、

川津から葛野井(嵯峨野)を経て泉津(木津)で引き揚げたとある。こうした国家的事業に臨む用材供給

源としては、特に桂川流域にある桑田郡・船井郡が注目される。桑田郡には平安京造営で木材を供給した

と云う伝承をもつ山国杣[ソマ]があり、船井郡には西大寺領船坂杣[ソマ]があった。

 延暦3年(784)桓武天皇の長岡京遷都、続く延暦13年(794)平安京遷都で、宮殿造営のため

に桑田郡山国村(現京北山国)を杣御料地(天皇家領山林)として修理職(山林守護職)を置き、大杣方

と棚見方の二座を設けて浮筏の取締りなどに当らせた。丹波の木材は、官営用材として筏に組まれて大堰

川から保津川・桂川を経て都に運ばれた。これが記録に残る大堰川流筏の始まりであり、以後1300年

余に亘って盛衰の歴史を辿るのである。筏は、最奥地の桑田郡広河原から灰屋・山国・周山・宇津を経て

上世木の浜に集結し、さらに中世木川・木住川および田原川が合流する長淵(幅40m・長700m)の

浜で筏団となって保津・山本の浜へ運ばれ、そこから更に嵯峨・梅津・桂の浜へと送られる。

 田原川では、上流の田貫・明日ヶ谷や海老谷川の管流し(1本流し)木材を吉野辺の浜で筏に組み合せ

長淵へと運んだ。(水谷口・佐々江市場・津戸・四ッ谷でも、浜が設けられていた。[久野敬次郎氏 談])

また知井・平屋・宮島など美山方面からの木材は、その殆どが弓削川を経由することなく宮脇から海老坂

峠を越え海老谷川経由で大堰川へと運ばれた。佐々江では、江戸中期の頃から筏流しが盛んになると神楽

坂峠や原峠を越え田貫・室谷を経て田原川に小筏を流すようになったが、秀吉以来の朱印状(流筏権)を

持つ海老谷川下流地区との軋轢が生じた。寛文5年(1665)の訴状によると、佐々江村の角右衛門が

「佐々江の流筏権を認めて四ツ谷の妨害を取り締まるよう」訴え、また元禄3~5年(1690~1692)

の訴状でも、佐々江村の伝兵衛・小右衛門・善兵衛が連名で同様の訴えを申し出ている。下って寛延2年

(1749)には、佐々江村3組庄屋の善兵衛・甚之丞・甚右衛門宛に「世木小道津浜での抜け荷物の件」

で宇津の弓槻村から詫び状が届けられている。筏と船の上荷紛争は万治年間から始まっているが、幕府を

巻き込んだ享和年間に至る船井郡45ヵ村(上世木・世木林・宮・中・下小畑・殿田・新・和田・海老谷

・東谷・佐々江・安鳥・上稗生・上野 他)「把物上積組」の上荷訴訟は、船井郡下の村々が行政の垣根を

越えて連帯と結束力を大いに発揮した運動であった。

 大堰川の整備・改修は北桑田郡内で以前から進められていたが、角倉了以の大堰川開削によって大きく

前進した。慶長9年(1604)の保津川開削、慶長11年(1606)の大堰川(世木村~嵯峨)開削

竣工[因みに了以は、慶長16~19年(1611~1614)に賀茂川と宇治川を結ぶ運河:高瀬川を

開削竣工した]以来、大筏と船の水運は大堰川流域に多大な恩恵をもたらし、日吉域も把物(千把・柴・

割木)・炭(木炭・黒木炭・松炭)・材木(筏・船)業を中心とする地場産業が隆盛した。

 大堰川筏では、すべて棹を使い櫂は一切使わない。棹は目取りといって目の高さの太さが直径7cm程

・長さが2.5m程の、先太が少し曲がっているアテビの木(もしくはチサの木)で、先太曲りの方を水中

に入れて使う。筏は、木の末口を下流に根元を上流に向けて組み上げ、良材と長材を後方(猿尾)に粗材

を前方(鼻)に配置し、幅約1間2尺(2.4m)全長28~30間(51~54.5m)の規模で連結する。

筏を組み上げるのに用いられる「捻苧」(ねそ)は、秋の彼岸ごろから茜・百日紅・サヤゴ・ゴヨネなどの

細長くて粘りのある木を伐り、水浸けにして乾燥を防ぎ使用時に煙火で蒸し撚り捻って柔らかくしたもの

で、茅屋根の桁と梁を結わえるとか千把や柴の結束にも使われていた。日吉域では、佐々江・生畑辺りが

主産地になっており、生畑には捻苧問屋があって園部藩特産品として流通していた。筏師は「筏差し」と

呼ばれ、通常5年程で一人前になり、熟練するに従って波を見分け筏を本波に乗せて傷付けないよう少し

でも早く着くように流していくのである。田原川では川幅も狭く水量も少なかったため、堰をして貯水し

抜いた水の勢いを利用して筏を流した。仕事始めは灌漑用井堰が撤去される9月15日の放生会に当り、

仕事仕舞いは井堰を設置する5月15日と決められていた。日吉域では水流が左右に屈曲している中村の

小道津浜が難所とされており、筏師は問屋ごとに「組み」を作って互いに協力し合いながら筏を操った。

[日吉町誌上巻p120~231][ひよし昔ばなしp190~8][日吉のたつき(生計)p12~6]

[図説丹波八木の歴史第二巻p21・30~1,第三巻p107~9][図説園部の歴史p140~1]

[ふるさと口丹波風土記p149~57]

【 江戸中期の若狭と京を結ぶ鯖街道 】

 船井郡誌には、京と若狭間の主要街道として若狭街道(園部~五ヶ荘村佐々江:距離5里9町46間)

と、高浜街道(五ヶ荘村佐々江~北桑田郡境界:距離31町)が記されている。

[船井郡誌(京都府郷土誌叢刊)p13]

 安永2年(1773)3月に、丹波国桑田郡大野村から甲州(山梨県)身延山に参詣へした法華宗信徒

一行(男女各四人)が旅日記「甲州身延山参詣泊り覚」を残している。そこには、大野村から高浜・小浜

街道を通り京へ出て東海道に入り、御油宿から姫街道へ迂回して見付宿で東海道に戻り、興津宿から身延

道を経て身延山に至る往復道中で、休憩した茶屋や宿泊した旅籠のことや、一行の内5人が疫病に罹り男

2人が帰らぬ人となったことなどが綴られている。延43日間の旅日記は、引率者だった岩江戸村(美山

町三埜)庄屋の文字佐太七(1742~1814)と父の権左衛門(1716~1788)により、一行

が無事帰り着いた翌月に書き記されている。3月17日付の記事には「一行は宮脇から葛坂(神楽坂)を

越えて笹江村(現日吉町佐々江)の茶屋伊兵衛にて昼食。周山上町甚左衛門にて泊り。」とある。当時は

神楽坂のことを葛坂(かずらざか)と云い、笹江村から明日ヶ谷の漆谷峠(現佐々江峠)を越えて熊田へ

更には五本松に出て周山へと向かった。大野村から葛坂への道は高浜街道、周山から山国村辻経由で京へ

の道は小浜街道と呼ばれる旧街道で、当時は交通の要衝でもあった。

 因みに佐太七の父である権左衛門は、篠山藩の永戸半兵衛から地誌「丹波誌」編纂のために調査を委嘱

され、桑田・船井・何鹿郡に関する地誌記録を分担しながら、明和7年(1770)5月から安永7年(

1778)6月までの9年間に亘って現地を調査した。

 永戸氏の死去(1778)によって地誌「丹波誌」は未刊に終わるも、権左衛門によって各郡村の石高

・所属藩・寺院・氏神祭礼日・名所・史蹟・伝承・河川系統などを詳述した調査記録「丹波国六郡分記」

が郡別に製本されて6冊残されていた。安永6年(1777)8月には、先の地誌調査に基づいて丹波国

六郡(桑田・船井・何鹿・天田・氷上・多紀)1,149村が詳細に描かれた「丹波国絵図」を残している。

他に、「知井野々村棚野全図」・「山国全図」・「何鹿郡全図」・「上林郷全図」・「日吉町域全図」・「和知

全図」・「弓削全図」や古城址見取り図20点余りが描き残されている。

 時代は下って文政10年(1827)、下平屋村(美山町)の新兵衛が浄土真宗の親鸞・蓮如聖人旧跡を

巡拝するため、小浜から北上し富山・善光寺・新潟・象潟を経て雫石・盛岡より南下、松島・福島・日光

・江戸・箱根を経た後、浜松・名古屋そして京に至る延96日間の旅に出ている。道中入用帳には、日付

・中飯・飯代・宿泊地・宿名・宿代・区間距離・渡船関所通行料・買物(道中記・御判帳・日用品・土産

など)が簡潔に記されている。長旅も終りに近づいた京から下平屋への道中「周山で昼飯を摂り、佐々江

では父様と親戚の傳吉が坂迎え、茶屋で休んだ後に峠を越えた」とある。また「稚狭考」には、「丹波の

海老坂の地蔵菩薩に参る。府下の男女群行すること古来よりあり。海老坂へ行くことは昔の如くはあらで

少なし。」と記され、嘗ては小浜城下の人々が群れを成して海老坂地蔵尊へ参詣したが、明和年代の頃には

少なくなったようである。

[美山町誌下巻p259~289][遥かなる身延への道:東慧著]

  ◆◆◆ 第3回は、佐々江の社会史(1)について紹介します。◆◆◆

    * 近世以前については、広く丹波地方の内容も含まれています *

【 日吉の曙 】

 天若地域では、町内で最も古い縄文時代後期(約4千年前)の狩猟場跡(32基の落し穴)が縄文土器

の破片や石鏃・石斧などを伴って発見され、この地域に居住し鹿や猪を追い込んでいた縄文人の狩猟生活

が鮮やかに甦った。時代は下って古墳時代(約千5百年前)の集落跡(39棟の竪穴式住居)も壺・甕・

椀・高坏等の土器類や土錘(漁網用)と共に発見され、農耕生活が定着して大堰川で漁も行っていたこと

が窺える。さらに下って奈良時代の建物遺構(9棟の掘立柱建物跡と1基の井戸跡)が漆の付着した蓋器

や様々な土器類などと共に発見され、井戸跡より底の欠けた須恵器の壺が逆さ状態で出土したことから、

井戸にまつわる何らかの祭祀が行われていたと考えられている。ここから北東9kmに位置する佐々江の

地にも、狩猟生活をする縄文人がいた可能性は十分にある。この天若遺跡が縄文時代から鎌倉時代に至る

複合遺跡として発見されたのは、皮肉にも日吉ダム建設により水没する地域(旧世木林地区)の発掘調査

(期間:1991年4月15日~1992年2月7日)によってである。

[日吉町誌上巻p3~16][日吉町の歴史と文化p10~3:日吉の曙(天若遺跡)]

 因みに東隣の京都市右京区京北田貫町や北隣の南丹市美山町平屋では、弥生時代の磨製石斧が出土して

いる。後期古墳時代以降では、京北田貫町の白山古墳(無石室)、京北下中町の鳥谷古墳(円墳 直径12m

:横穴式石室,三足壺須恵器)、京北上弓削町の筒江弾正塚(無石室)、京北室谷町の室谷古墳(円墳 直径

17m:横穴式石室)等が見つかっている。隣接する佐々江でも、弥生時代以降には定住生活をする人々

がいたであろうと推測される。[ふるさと口丹波風土記p174・178]

【 記紀における丹波(旦波:タニハ) 】

丹波(タンバ)」の語源について、古事記や日本書紀など多くの古書には但波・旦波・丹婆・谿羽・太邇波

・田庭など諸説記されているが、概ね次の三説に分けられる。まずは湖水説で、亀岡市鍬山神社社伝に「

昔、出雲大神が国造りのために丹波へ来た時、四方を山に囲まれたこの一帯は泥海で悪獣が民を傷つけて

いた。大神は一方に泥水の掃ける水道を作るために、自ら鍬を取って山の一方を切り拓いた。溢れていた

泥水は退き“浮田”の狭が開いて豊かな土地となり、多くの民が喜んだ」という伝説があり、丹波風土記

には「浮田の明神は大山咋の神にて、太古この国一面の湖にてその水赤かりし故に“丹波”と言いしが、

この神その湖を涸らして遂に国と成し給せし」云々とあって、海もしくは湖の水が丹色であったことから

“丹波”という説である。第二は、和漢三才図会に「山陰八ヶ国のはじめ、王城附庸の国なり。初め谷羽

の字を用ひし後、丹波と成す」と記され、国号考には「丹波の言は谿羽なり。山間に於ける国なるを以て

名を得」云々とあり、四面山に囲まれた谿間の土地であることから、谿羽(タニハ)あるいは谿端(タニハ)と呼ぶ

説である。第三は、諸国名義考に「名義は田庭なるべし。渡会の外宮の豊受大神この国に坐して、内宮の

皇大御神の朝夕の大御食奉り給ふ故に、しかおひし名なるべし」とあるように、昔豊受比売命が日ノ大神

から授けられた稲種を蒔いて米を作られた初めての地であったことから“田庭”というようになり、後に

“丹波”と呼んだという説である。他にも諸説あって何れの説が正しいかは不明であるが、丹波地方では

古くから大和朝廷と交流のあったことを窺い知ることができる。[図説園部の歴史p38~9]

[ふるさと口丹波風土記p178~83]

 崇神期には南山城の反乱で、古事記では彦坐王(日古坐命)を、日本書紀ではその子である丹波道主王

(旦波比古多多須美知能宇斯王)を旦波国に遣わし平定(西征)させたとあり、当時の旦波国が陸上交通

を掌握する上で重要な地域であったことを物語っている。和銅6年(713)以前には現在の丹後・丹波

・但馬地方(三丹地方)全域を旦波と呼んでいた。継体天皇の即位前紀に、仲哀天皇の子である誉屋別命

の後裔氏族が仕える仲哀天皇の五世孫(誉屋別命の四世孫)と称する倭彦王は、旦波国桑田郡にいたが、

大連大伴金村の知るところとなり、武烈王の後継に迎えようとしたが恐れを成して逃亡したとあり、誉屋

別命の弟である誉田別命(応神天皇)の五世孫の継体王を擁立することになった。

[図説園部の歴史p40~1][新修亀岡市史 本文編第一巻p267~315]

 旦波国桑田郡にいたと記す倭彦王に関連していると考えられるのが亀岡市千歳町にある千歳車塚古墳で、

6世紀前半に築造された三段築成墳丘(墳長82m・墳高7.5m)は周囲に廻らせた二重周濠を含める

と全長150m超の桑田郡最大の前方後円墳である。くびれ部には方形の造出しを設け、葺石と形象埴輪

が配置されていた。倭彦王の推定年代に近く、倭彦王か当地でこの王の擁立に関わった豪族が被葬者では

ないかとも云われている。古墳のすぐ西寄りを南北に延びる古道は奈良時代の山陰道と推され、「道」を

巡って豪族間の政争が繰り広げられていた。

 また応神期には、朝鮮半島から渡来して帰化氏族となった秦氏が旦波国桑田郡に土着して、養蚕・機織

や治水・灌漑土木の先進技術を駆使し蚕織の改良(丹波史年表)や湿地帯の開拓などを行った。日吉町域

の里山に今でも生息している山繭(天蚕)は、あるいは秦氏が当時に持ち込んだ蚕の系統かもしれない。

5~6世紀にかけて、大和王権の国土統一に伴い国造が設置され、旦波国造として丹波直が任命されたと

されている。その根拠として延暦2年(783)に「丹後国丹波郡の人正六位上丹波直真養(マカイ)を国造

に任ず」(続日本紀)とあり、姓の「直」から推して大化前代の旦波国造に遡ると考えられる。一方で、

宮津の籠(コモ)神社が所蔵する『海部氏系図』によると、同社の祝[ホフリ]を世襲した海部直が「丹波国造」

であったという伝承がある。『海部氏勘注系図』では「建振熊宿禰」箇所に「海部直また丹波直と云う」

と注記されていることから、海部直と丹波直は同族関係にあったとも考えられる。丹波直は郡老・検校

・擬大領などに名を連ねており、船井郡においても譜代の豪族であった。

[日吉町誌上巻p24~7][船井郡誌p23~25][図説丹波八木の歴史第二巻p10~3]

[京都府の歴史散歩p157][京都の歴史を足元からさぐる~丹後・丹波・乙訓の巻p34~52]


【 丹波国府 】

 大化2年(646)に孝徳天皇が置いた丹波国府の比定地には諸説あり、現在では亀岡市千代川町拝田

にあった国府が平安末期から鎌倉初期にかけて南丹市八木町屋賀へ移転したという説が通説となっている。

室町時代に描かれたとされる下図の『丹波国吉富荘絵図写』には、一際目立つ建物群として「国八庁」が

記されており、板葺きで一部に高床・縁の付いた4棟の建物が他の在家より一回り大きく描かれている。

すぐ西側には「在庁等住所」と記された5棟の在家が、さらに南側には「川関所」と記された1棟の建物

が描かれている。この「国八庁」は丹波国の国衙と考えられ、比定地とされる北屋賀集落内には「国府」

という小字が残っており、丹波国総社と推定されている宗神社が建っている。その北東に描かれた山は、

現地の裏山と多国山という孤立丘陵の位置・山並とも合致する。「在庁等住所」は在庁官人が付近に構えて

いた住居で、「川関所」は大堰川の河川交通を司った国衙施設と考えられる。

 また、元和3年(1617)7月9日付の『三輪氏由緒書』には「丹波国司・<中略>・船井郡屋賀村

に館舎を構へ・<中略>・今しるしとて末世迄残れるは国司屋鋪と名付方2町・<中略>・四方竹林にて

外に堀をほり廻し」と云った近世の記録が残されており、承平年間(931~8)源順により編集された

『和名類聚抄』の記す桑田郡池辺郷を、屋賀よりも北に位置する八木町旧富本・新庄村などに比定して、

古代の桑田・船井郡の境が現在より北にあったことを考証し、屋賀が『和名類聚抄』に記された丹波国府

所在地の桑田郡にあったとする説もある。

 近年の池尻遺跡調査では、奈良時代の漆を入れた小壺や大型掘立柱建物跡が出土しており、亀岡市馬路

町池尻が「丹波国府」の有力な比定地として注目されている。古代山陰道を通じて、現日吉町域と何らか

の形で交流があったという文献・考古学史料は見つかっていない。

[図説丹波八木の歴史第二巻p34~7][新修亀岡市史 本文編第一巻p370~90]

[日吉町誌上巻p28][平凡社『日本歴史地名大系 京都府の地名』丹波国府跡項]


【 丹波の分割(二丹 → 三丹) 】

 日本書紀では、天武2年(673)条12月に「大嘗に侍奉り、播磨・丹波2国の郡司禄賜う」とあり、

また天武4年(675)条2月には「大和・河内・摂津・山城・播磨・淡路・丹波・但馬・近江・若狭・

伊勢・美濃・尾張等の国に勅して曰く・・・侏儒・伎人選びて貢上れ」とある。7世紀後半の令制成立に

伴い、旦波はその北西部を但馬国、他を丹波国として2つに分割された。

 丹波国は、但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐の国と共に山陰道7ヶ国に属していた。古代の「道」

とは、官道そのものであり、同時に官道沿いに位置する国々で構成された行政区画でであった。大宝元年

(701)に制定された『大宝令』によると、全国の行政区は山城・大和・摂津・河内・和泉の5ヶ国を

畿内と定め、他の地域は東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・西海道・南海道の7道に区分されて

いた。承平年間(931~8)源順によって編集された『和名類聚抄』には、丹波国内を通る山陰道の駅

として、大枝[オオエ]・野口[ノノグチ]・小野・長柄[ナガラ]・星角[ホシズミ]・佐治・日出・花浪[ハナナミ]の8駅が

記されており、各駅の比定地を結ぶと平安中期における山陰道の経路が推定できる。山陰道の首駅である

大枝駅の比定地としては、大枝山(老ノ坂峠)下ってすぐの亀岡市篠町王子が有力であり、続く野口駅は

桂川西岸を北西に向かい千代川遺跡付近を西へ通過した先の南丹市園部町南大谷野口に比定されている。

但し奈良時代の山陰道経路は、天平時代には官道に沿って建立されることの多い丹波国分寺や丹波国府の

位置から、桂川東岸を通っていた可能性が指摘されている。第3の小野駅は兵庫県篠山市小野が有力地と

されており、長柄・星角は地名上では該当地が見つからないものの『厩牧令』で駅間距離を当時の約30

里(16km余)と定めていることから長柄駅は篠山市内、星角駅は丹波市春日町付近が該当地になる。

佐治駅は丹波市青垣町佐治に比定されている。佐治駅から西に向かって遠阪峠を越え但馬国に入ると粟鹿

駅があり、比定地の朝来市山東町の一品・和賀・柴何れも佐治との距離が30里以内であるため、日出・

花浪の2駅が丹後国へと向かう山陰道別路上にあった駅と考えられている。[日吉町誌上巻p29]

[図説丹波八木の歴史第二巻p14・38~9][新修亀岡市史 本文編第一巻p432~45]

 続日本紀によれば、和銅6年(713)4月「丹波国、加佐・与佐・丹波・竹野・熊野の五郡を割いて

はじめて丹後国を置く」とあり、嘗ての旦は丹後国・丹波国(桑田・船井・天田・何鹿・多紀・氷上)・

・但馬国の三国に分かれた。丹波郡が丹後国の管掌となったことや『和名類聚抄』にも「丹波郡丹波郷」

名のあること、丹波国造として史料に現れる丹波直氏の本拠地が丹波郡であったことなどから、丹波国の

中心地は旦波時代には後の丹後国にあったが、次第に南下し古墳時代末期には桑田郡南部へ移っていった

と考えられている。

 延喜式(民部)によれば、丹波国は山陰道に属し6郡を管轄する上国であるが、5郡を管轄する中国で

ある丹後国を分離するまでは、全11郡を管掌した大国の等級だったであろう。国力の規模に応じて、国

は大・上・中・下の4等級に分けられ、郡は大・上・中・下・小の5等級に分けられた。

承平年間(931~8)源順によって編集された『和名類聚抄』によると、船井郡は刑部・志麻・船井・

出鹿・田原・余部・野口・須知・鼓打・木前の10郷が中郡に、桑田郡では小川・桑田・漢部・宗我部・

川人・荒部・池辺・弓削・山国・有頭・摸作・佐伯の12郷が上郡に格付けされている。船井郷は、郡名

を帯びることから郡衙の所在地と推定され、式内社の船井神社が鎮座している現八木町船枝が郷の中心地

であったと考えられる。田原郷は、古代の文献には出ていない。

 天平年間(729~49)の正税帳によると、丹波国は都中央諸司官人の食糧に充当する「年科舂米」

の輸納国に指定されている。また延喜式(民部)によると、丹波国は大炊寮には白米5百石・糯26石を、

内蔵寮には黒米20石を納める規定になっていた。丹波国では、原則として庸は米、調は絹綿であるが、

数量を指定している小許春羅[アサミドリノラ]・一窠綾・二窠綾・七窠綾・白絹・緑帛・帛などの調品目は高級

織物などの手工業製品で、中男作物(黄檗[キハダ]・紙・黒葛[ツヅラ]・漆・胡麻油・蜀椒[ナルハジカミ] ・平栗

子・搗[カチ]栗子)と同様に、公民の使役により国衙の工房で作るか交易により調達するなどして所定量を

貢納させた。既に和銅5年(712)には国衙の工房で材料・機具を備えて織らせた高級織物の生産が、

近江・丹波・但馬・播磨など21国で始められている。続日本紀では養老6年(722)9月に和同開珎

を流通させるため、丹波国などの畿内周辺8国に調の銭納を命じている。丹波国の贄は、延喜式(宮内・

内膳)によると甘葛煮・椎子・平栗子・搗[カチ]栗子と生鮭・鮨年魚[スシノアユ]・塩塗年魚[シオヌリアユ]であった。

当時の徴税は、山上憶良が万葉集5巻『貧窮問答歌』長歌に「天地[アメツチ]は 広しといへど 吾がためは 

狭[サ]くやなりぬる 日月は 明[アカ]しといへど 吾がためは 照りや給はぬ 人皆か 吾のみやしかる 

わくらばに 人とはあるを 人並に 吾れも作[ナレ]るを 綿も無き 布肩衣の 海松[ミル]の如 乱[ワワ] け

垂[サガ]れる かかふのみ 肩に打ち掛け 伏廬[フセイオ]の 曲廬[マゲイオ] の内に 直土[ヒタツチ]に 藁[ワラ]

解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは足の方に 囲み居て 憂へ[サマヨ]ひ 竈[カマド]には 火気[ホケ]

吹き立てず 甑[コシキ]には 蜘蛛[クモ]の巣懸[カキ]て 飯炊[イヒカシ]く 事も忘れて 鵺鳥の 呻吟[ノドヨ] ひ

居るに いとのきて 短き物を 端截[ハシキ]ると 云えるが如く 楚[シモト]取る 里長[サトオサ]が声は 寝屋

戸[ネヤド]まで 来立ち呼ばひぬ 斯くばかり 術無きものか 世間[ヨノナカ]の道 世間を憂しとやさしと

思へども 飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」と詠んだように、人民に過酷な生活を強いるものであった。

その一方で慶雲4年(707)や天平宝字7年(763)に飢饉と疫病が発生した際には、丹波国でも租

が免除され、稲穀・布・綿・塩などを支給する「賑給[ジンゴウ]」が実施されている。

 丹波から都へ運ばれた木材は王臣や民間へも流通し、延暦15年(796)9月26日付『太政官符』

によれば、大和・摂津・伊賀・近江・丹波等で民間に売買されている檜皮の規格が定められており、畿内

や近国で銭の流通が促進されていたこともあって官の需要だけでなく民間での売買が既に始まっていた。

[日吉町誌上巻p30~1][図説丹波八木の歴史第二巻p20~1・24・31~4]

[京都の歴史を足元からさぐる~丹後・丹波・乙訓の巻p17~8][ふるさと口丹波風土記p183~5]

  ◆◆◆ 第2回は、佐々江の自然史について紹介します。◆◆◆

【 郷土の地勢と風土

 佐々江は、京都府のほぼ中心部に位置する日吉町の北東部(北緯35度12分,東経135度35分)

にあって、北は標高500~600mの山々を隔てて美山町と、東は川の流れに沿って京北町と隣接する、

大堰川支流の田原川によって形成された中上流域の山間地集落(海抜235~260m)である。気候は

太平洋気象圏と日本海気象圏が接する山間地にあるため、夏は暑さが穏やかで涼しく冬は寒さが厳しい。

気温も府内南部に比べて平均3℃ほど低く、夏と冬の平均気温差は約23℃と年較差が比較的大きい。

 佐々江から東行して京北町の周山街道へと抜ける船越峠(標高約340m)はやや低いが、その南北に

延びる山々は標高500mを超え、北方の美山町原との境界には600m級、南方の日吉町生畑との境界

には500m級の山稜が連なる。上佐々江の北谷から京北町室谷へ通じる室谷峠(標高約300m)や、

中佐々江の明日ヶ谷から京北町漆谷へ抜ける漆谷峠(標高約350m)、中佐々江の藤ノ森から美山町原

へ抜ける原峠(標高約400m)、下佐々江の道奥谷から美山町原へ通じる旧くは葛峠と呼んだ神楽坂峠

(標高約450m)、下佐々江の四ノ谷から日吉町生畑へ通じる小畑峠(標高約450m)等の峠古道は、

嘗て佐々江と周辺集落とを繋ぐ主要な交通路であった。明治以降の道路改修で、周山街道に至る幹線道は

漆谷峠道から船越峠道(府道78号線)に取って代わり、日吉方面から北陸への最短道だった原峠道も、

平成9年の神楽坂トンネル(府道19号線)開通によってその役目を終え、閑散とした旧道になった。

 京北町田貫の川ナベ・宗庵谷を起点とする田原川の佐々江流域には、上流から順に室谷川・明日ヶ谷川・

飛谷川・道奥谷川・向殿川・小津谷川と大小合せて6つの支流が注ぎ込み、その周辺に集落と田畑が点在

している。丹波高地の恵まれた自然の中にあって、四季折々の山紫水明を味わうことができ、地味は大変

肥沃である。[日吉町誌上巻p3~17]

 地質年代は、中生代三畳紀古世~中生代ジュラ紀新世(2億5千~1億5千年前)の丹波帯Ⅰ型地層群と

呼ばれる丹波層群で、佐々江コンプレックス(地層岩石集合体)として区分されている。主に頁岩・層状

チャートおよび砂岩頁岩互層や塩基性火山岩(明日ヶ谷)から成り立っている。

 丹波帯の山間盆地堆積物は、殆どが大阪層群最上部相当層と考えられ、各盆地の地名を冠して福知山層・

梅迫層・八田層・和知層・胡麻層・実施層・園部層・篠層などの地層名が付けられた。丹波帯には、堆積

時あるいは堆積後の続成時に生成したと考えられる層状マンガン鉱床があるが小規模で、多くはⅠ型地層群

分布域のジュラ紀古世から中世の層状チャート中に存在する。菱マンガン鉱を主体とするが、熱変成等を

受けて種々のマンガン鉱物が生成している。佐々江でも嘗ては明日ヶ谷の岩見鉱山や神楽坂の道奥谷鉱山

で採掘されていたが、昭和45年頃には全て閉山している。[京都府レッドデータブック:地形・地質]

 新生代第四紀更新世には、120万年前頃から近畿地方で六甲変動という東西方向の圧縮による逆断層

を伴った断層ブロック運動が起こり、大阪・奈良・京都をはじめ亀岡・園部等の内陸各地にも盆地が形成

された。その後、氷期と間氷期の周期的な海面昇降によって海進・海退を繰り返しながら、海水準の上昇

と共に大阪・奈良や京都南部では海水が進入し、亀岡・園部などの山間盆地でも湖沼が広がった。70~

80万年前には、園部周辺の湖水面は標高約280m(現在の観音峠付近)にあったと推測されている。

やがて丹波高地では活断層運動が活発になって盆地が離水し、大堰川水系(田原川・園部川などを含む)

が形成され、殿田から胡麻を経て北流し由良川に合流してから、加古川を経由して太平洋に注いでいた。

約30万年前頃、殿田・亀岡断層の活動により北東側の隆起と亀岡盆地の沈降が生じ、大堰川水系は流路

を北流から現在の南流へ転じた。標高210mの胡麻平原には、河川争奪でできた大堰川水系(胡麻川)

と由良川水系(畑郷川)の平坦な谷中分水界が今も幅700mに亘って残っている。

[図説園部の歴史p11][園部の大地p4]

【 京都西山活断層帯:殿田断層 】

 京都西山断層帯は、京都府船井郡瑞穂町から大阪府三島郡島本町まで、西北西-東南東ないし南北方向

に延びる長さ約42kmの活断層帯である。この断層帯は分布形態から北西半部及び南東半部に区分され、

北西半部(殿田断層・神吉断層・越畑断層・亀岡断層)は北東側隆起の逆断層成分を伴う左横ずれ断層、

南東半部(樫原断層、西山断層、灰方断層、光明寺断層)は西側隆起の逆断層と推定される。

 殿田断層の総延長は約20kmであるが、日吉町殿田地区付近で断層の走向および活動履歴が大きく変化

しており、この場所を基準とすると殿田断層の中西部は約14km、東部が約6kmの長さなる。

 本断層帯の北西側には三峠(ミトケ)断層・上林川断層、北東側には周山断層、南西側には埴生断層が並走して

いる。平均的な変位速度は、左横ずれ成分が約0.3~1.0m/千年、上下成分が約0.1~0.4m/千年

であった可能性がある(殿田断層の平均変位速度を本断層帯の代表値とする)。

 過去の最新活動期は、約2千4百年前以後~2世紀以前、その前の活動期は約8千4百年前以後~約6

千3百年前以前と推定され、前々回の活動期は約1万3千年前以後~約9千4百年前以前であった可能性

がある。平均活動間隔は約3千5百~5千6百年であったと推定される(殿田断層世木林地点での推定値

本断層帯の代表値とする)。

 将来の活動については、区間全体が連動するとした場合にはマグニチュード7.5程度の地震が発生し、

北東及び西側が相対的に高くなるような3~4m程度の段差、あるいは左横ずれを生じる可能性がある。

仮に京都西山断層帯の活動時に殿田断層中西部が連動しなかった場合、マグニチュードは7.5から7.2

となり、断層運動に伴うずれの量も2.2mとなる可能性がある。本断層付近の被害地震としては、文政

13年(1830)の文政京都地震(M6.5±0.2)が知られているが、この地震と本断層帯との関係

は不明である[文政雑記]。その他の先史時代・歴史時代の被害地震は特に知られていない。
[地震調査研究推進本部 地震調査委員会 (2005年2月9日)]

 

【 里山の環境 】

 日本人の原風景としての森や川や海は、姿を大きく変えながらもまだ辛うじて再生への可能性を残して

いる。本来、森は川を通じて海へと不可分に繋がり両者は共存共栄してきた。しかし、20世紀後半以降

における森林破壊、河川の水路への改変、自然の循環を無視した都市の巨大化は、海に浄化能力を越える

負荷を与え、沿岸域の生物生産と漁業生産に深刻な影響を及ぼしている。森と海の繋がりの再生は、その

間に介在する人里における人と自然の共存原理を学ぶことから始まる。

 嘗て人々は燃料・肥飼料・食料・建築材など生活に必要な資源を得るために、家や農地の周辺の森林(

農用林または二次林)を利用してきた。こうした伝統的な農村景観全体としての里山には、二次林・社寺

林と云った森林だけでなく畑地・水田や水路・溜池・河川・草地など様々な環境要素が含まれる。二次林

だけでもアカマツ林・コナラ・クヌギなどの落葉広葉樹林や竹林・林道などが含まれ、さらに利用目的・

利用頻度・林齢などによる違いも相まって時間的・空間的にも異なった多様性を持っている。

 様々な要素がモザイク状に分布する環境は、生物にとっても多様な生育・生息環境となる。二次的自然

である里山は、人間活動による攪乱を伴って形成されてきたため、原生林と異なる自然とそれに適応した

生物相から成る生態系が成立した。一般に生物の多様性は適度な攪乱がある時に最も高くなると云われて

おり、周期的な攪乱が適度に且つ断続的に行なわれる里山では、生物の多様性が高くなって里山生態系が

創り出された。

 1960年代以降、燃料が木材資源から化石資源に取って代わり肥料が有機肥料から化学肥料へと移行

するなど、里山が利用されなくなり人間の働きかけが少なくなることで環境が次第に均質化していった。

例えば、周期的に施業されてきた下刈りや除間伐がなくなると植生の遷移が進んで、明るい光環境を好む

植物や、伐採・倒木の後に特徴的に出現する先駆種または攪乱依存種など里山に特有な種は姿を消して、

暗い常緑樹の林へと変化していく。里山生態系の構成要素である農耕地は休耕が目立つようになり、水田

用水路は放置されて森林から農耕地を経て河川に至る水系環境と水利システムも失われていく。こうして

里山は粗くて単純なモザイクから成る自然へと変貌・変質してきた。特に都市近郊では、開発により里山

が周辺から削り取られ森林の分断・孤立化を招いている。

 里山を棲み処としていた多くの生き物達は、こうした生態系の変質に適応できず食物連鎖の崩壊により

一つまたひとつと姿を消していき、嘗ては日常的に見られた生物が今では「絶滅危惧種」と云われるよう

になった。さらに農薬や化学肥料の使用も、その化学成分が命の脅威となり生物の棲み処を奪っていった。

「絶滅危惧種」生物の半数が里山を生息域とする種であることは、里山生態系が健全でないことを示して

いる。失われようとしているのは山の環境や生き物だけではなく、里山で長年培われてきた生活の知恵や

文化もまた然りである。

 現在では里山は、高い生物多様性を有する保全生態学的な役割と人工的ではない自然の緑地空間として

の景観生態学的な役割を求められている。里山生態系の保全に際しては、生物多様性を現在より低下させ

ないようにすること、地域固有の種を保護することを念頭において、生物の特徴や分布状況などを充分に

調査し把握しておくことが重要である。自然や生物を消滅させるのは容易だが、一度失われてしまうと元

の姿に戻すことは科学の力を以ってしても大変困難である。一種でも多く生物の生息環境を維持・改善し

生物多様性がこれ以上損なわれないよう里山生態系を保全するために、現代人に課せられた責任は重大で

ある。[京大フィールド研編「森と里と海のつながり」]

 嘗ては里山にも栗・胡桃(クルミ)・椎実・柿・山梨・木通(アケビ)・山葡萄・野苺・山芋などの果実や山椒

・桵芽(タラノメ)・独活(ウド)・茗荷(ミョウガ)・筍・蕗(フキ)・蕨(ワラビ)・薇(ゼンマイ)などの山菜が豊かに自生し、

湿地では芹・三葉・慈姑(クワイ)・里芋など、田原川には諸子(モロコ)・鮠(ハヤ)・追河(オイカワ)・川鯥(カワムツ)・

麦突(クチボソ)・鎌柄(スナクジ)・鮒(フナ)・鯉・鰻・鯰(ナマズ)や川蜷(カワニナ)・蜆(シジミ)など、また谷間を縫う

渓流にも葦登(ヨシノボリ)・鮎・天魚(アマゴ)・山女魚(ヤマメ)・岩魚(イワナ)や大山椒魚など川の恵みが、そして

水田や水路でも鯲(ドジョウ)・田螺(タニシ)や源五郎・田龜(タガメ)・蛙・井守(イモリ)・石亀などが数多く共生

していた。奥山では鹿・猪・狐・月ノ輪熊など、里山では蛍・甲虫や蚯蚓(ミミズ)・河鹿(カジカ)・雉(キジ)

・鼬(イタチ)・貂(テン)・蜥蜴(トカゲ)・蝮(マムシ)などが生息し、空には蝶・蜻蛉・蜂・雀・燕・鶺鴒(セキレイ)・

川翡翠(カワセミ)・山翡翠(ヤマセミ)・山鳩・鳶(トンビ) ・鷹・鷺や鸛(コウノトリ)などが飛び交っていた。

 やがて里山や水田の荒廃が河川の汚染と相まって拡がってゆくに随って、山水から多くの生物たちが

姿を消していった。[日吉町誌上巻p16~7,227~9,801~6]


【 自然の恵み 】[日吉町誌上巻p801~6

米と麦:一般農家では唐臼で米を踏んだ米を胚芽米あるいは半搗米と云ったが、精白米ではなく半玄米で

    あった。粘りと歯応えはあったが糠の匂いが僅かに残り、一般には大麦を3割ほど混ぜた麦飯が

    常食であった。米は籾の状態で保存されていて、必要な時に籾摺りをした米を今摺米と云うが、

    籾殻に包まれた米は老化せず鮮度が保たれて、新米と同じように美味しい味であった。

飲み水:嘗ての飲み水は、泉か地下水を汲み上げて使っていた。地下水は雨水が何年・何十年・何百年と

    地下に浸み込んで濾過され適度な鉱物質が溶け込んだミネラル水で、夏は冷たく冬は暖かい年中

    平均温度15℃前後の最適な飲料水である。日吉町域は天然の森林ダムを形成していて、どんな

    小さな枝川でも夏の旱天に枯れることはなく、豊富な地下水に守られた水郷の地である。

山の幸:春5月になると、蕗(フキ)・蕨(ワラビ)・薇(ゼンマイ)・山椒などの豊富で良質の山菜が採れる。商品と

    しては流通しないものの、桵芽(タラノメ)・独活(ウド)・茗荷(ミョウガ)・筍なども食卓を彩る季節の味

    である。山の幸の最高級品は、香り高く上質の「丹波松茸」であるが、栗・椎茸・葡萄・干柿・

    茶なども商品として栽培されていた。山野で自生する椎実・桑実・胡桃・梨・岩梨・山苺・木通

    (アケビ)・茱萸(グミ)などは子供達の絶好のおやつになった。山芋も掘り当てるのが難しい貴重な

    食糧であった。湿地に芹・三つ葉・慈姑(クワイ)が、畑に葉も実も香り高い食用・調味料の紫蘇が

    あり、渋柿は合羽用の渋紙作り・渋団扇の塗料・魚網の染料・漉し布の染料として愛用され、脳

    卒中の特効薬でも知られていた。

川の幸:嘗ては天然鮎や鰻が山奥の渓流にまで遡上し、谷間の清流には大山椒魚が生息していた。他にも

    諸子・鮠(ハヤ) ・鰣(ハス)・川鯥・麦突(クチボソ)・鎌柄(スナクジ)・鮒・鯉・鯰・義義や川蜷・蜆など

    や、渓流では葦登(鮴)・岩魚(イワナ)・山女魚(ヤマメ)・天魚(アマゴ)などが、また水田や水路でも泥鰌

     (ドジョウ)・田螺や源五郎・田龜・蛙・井守・石亀などが数多く共生していた。鮎や岩魚・山女魚

    ・天魚は塩焼き、鰻は蒲焼き、諸子は甘露煮、鮠は串刺焼きにして保存食としたほか、麹漬けや

    馴れ寿司にして食した。季節を味わいつつ自然に貴重なタンパク源を獲ることができた。

    その後、下水道整備や農業技術の進展などによって山間地での河川環境が改善されるに及んで、

    近年漸く河川の水質も回復の兆しが見え、佐々江では平成21年(2009)8月に田原川上流

    の明日ヶ谷橋下で遡上する体長約40cmの山椒魚が確認されている。平成27年(2015)

    には、田原川支流の道奥谷川で体長約20cmの山椒魚が2体寄り添うように遡上しているのが

    確認されている。

鳥と獣:古くから雉・山鳥・兎・猪・鹿などの鳥獣猟をして、川の幸と併せタンパク源を補った。猪・鹿

    は野荒しの大敵で、日を決めて山狩りをするなどした。嘗ては猪・鹿などの天敵として狼が生息

    していたので生態系のバランスが保たれていたし、また山野には照葉樹や広葉樹の原生林も多く

    分布し越冬食としての木の実なども豊富にあったので、現在のように里山の野菜作物まで荒らす

    ことは少なかった。

 ◆◆◆ 第1回は、佐々江にまつわる記録資料や文献について紹介します。◆◆◆

   * 近世以前については、広く丹波地方の記録も含まれています *

【 自 然 】

   1.日吉町誌 上巻

   2.図説園部の歴史

   3.園部の大地

   4.文政雑記

   5.京都府レッドデータブック:地形・地質

   6.地震調査研究推進本部 地震調査委員会 (2005年2月9日)

   7.京大フィールド研編「森と里と海のつながり」

   等々です。

【 社 会 】

   1.日吉町概説

   2.日吉町誌 上巻・下巻・平成版

   3.日吉町の歴史と文化:日吉の曙(天若遺跡)

   4.日吉町の文化財

   5.日吉のたつき(生計)

   6.ひよし昔ばなし

   7.ひよしの碑

   8.ひよし再発見

   9.ひよし窯製作調査報告書・木炭 -伝統技術の保存調査-

  10.日吉町政だより:国勢調査

  11.南丹市ホームページ:人口・世帯数集計表

  12.郷土誌『丹波古道』

  13.『丹波』第8号(丹波史談会):丹後から京への通船計画

  14.佐々江区の永年保管文書:明治27年6月および11月の証書

  15.古里70年の思い出~古里70年史~:久野敬次郎著

  16.闘病の記 4~佐々江のむかしばなし 他~:久野克己著

  17.「最後の日記」より第十六師団兵士 下村實はゆく-苦悩の中で-

  18.昭和17年2月1日付航空便戦死公報]

  19.悲運の京都兵団証言録 防人の詩 比島編

  20.平成の戦争証言~次世代への最後のメッセージ~<かえりみて>

  21.ふるさと口丹波風土記

  22.丹波動乱~内藤宗勝とその時代~

  23.丹波マンガン -じん肺と女たちの軌跡-

  24.天明の地鳴り~口丹波一揆物語~

  25.図説園部の歴史

  26.園部町史 史料編 Ⅳ

  27.図説丹波八木の歴史 第二巻・第三巻

  28.新修 亀岡市史 本文編 第一巻

  29.美山町誌下巻

  30.遥かなる身延への道:東慧著

  31.『日ごと感謝で 美山町とわたし』

  32.京北町五十年誌

  33.綾部市史

  34.福知山市史

  35.船井郡誌

  36.京都府の歴史散歩

  37.京都府中世城館跡調査報告書第2冊丹波編

  38.京都の歴史を足元からさぐる~丹後・丹波・乙訓の巻

  39.平凡社『日本歴史地名大系 京都府の地名』:丹波国府跡

  40.京都府百年の年表

  41.伊能忠敬e資料館

  42.四千万歩の男:井上ひさし著

  43.別冊太陽:子ども遊び集

  44.「浄瑠璃くずし丹波音頭」和綴本《 浄瑠璃くずし丹波音頭と踊りの由来 》

  45.京都府立ゼミナールハウス友の会だより<No.148>

      特別寄稿「丹波音頭と共に」-久保義嗣-

  46.第一回・第七回 丹波音頭・踊りフェスティバル

  47.「ふるさとのことば」-美山町岩江戸の方言集-《 丹波音頭でヨーホイセ 》

  48.山渓「水辺の昆虫」・「淡水魚」

  等々です。
 

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